曇り空に反響して、波音が柔らかく耳に届いた。
そろそろ暑さのゆるみ始めた時候に、天気と場所があいまってさらに涼しかった。
彼女は今、この砂浜にいた。
住宅地にほど近いちっぽけな砂浜で、彼女は風に髪を預けていた。
用があって来たわけではなかった。
ただなぜか、この場所が彼女を魅了して、そして引き込んだ。

彼女は目を閉じた。
この砂浜を、耳と肌で感じた。
しばらくそうしてから、目を開けた。
そうすると、不意に彼女の視界に青年の姿が映った。

いつからそこにいたのか、彼女はまったく気づかなかった。
青年は砂にかがんで、何かを探している様子だった。
彼女に気づいている様子はなかった。
彼の指先は砂をすくって、さらさらと流した。
黒い髪はしっとりとして、その下の目はただ指先の砂を見つめていた。
きれいだった。
きれいで、そしてどこかはかなげだった。
まるで彼自身が、景色の一部のようだった。
意識せず、彼女は声をかけていた。

「あの」

青年は顔を上げた。
彼の瞳が、まぶしそうに彼女をとらえた。
彼女は続けた。

「あの、何か探してるんですか」

青年は彼女を見つめた。
それから視線を指先に戻して、静かに言った。

「赤い砂を、探しているんです」

「赤い砂?」

オウム返しに彼女は尋ねた。
青年はうなずいて答えた。

「そうです。
赤い砂です」

青年はそれからまた、作業に没頭した。
彼女はその様子をしばらくながめていた。
そうしてから彼女も、見様見まねで砂を探った。
砂にかがんで指先にすくった。
それから少しずつ、見つめながら流した。
流れる感触は心地よかった。

不意に、他とは違う色の砂がひとつぶ、指の間を通り抜けた。
彼女は慌ててそれを拾った。
赤い砂だった。
彼女は高揚した声で青年に呼びかけた。

「これ。
赤い砂。
ありましたよ」

青年は彼女に近づいて、その手から砂を受け取った。
それから手の平で転がして、砂を観察した。
ややあって、青年は悲しそうに首を振った。

「残念ですが、これは私の探している砂ではありません」

彼女の高揚感が、するりと肩透かしを食らってしぼんだ。
青年は彼女の様子を見て謝った。

「すみません、わざわざ手伝っていただいたのに」

「あ、いえそんな。
私が勝手に手伝っただけですから」

彼女の顔が赤くなった。
青年はどうしようか迷うそぶりを見せた。
互いに気まずくて沈黙した。
少しして、彼女の方から喋った。

「あの、もし邪魔ならここ出ますけど」

「あ、いえそんな邪魔なんて」

青年は手を横に振って答えた。

「全然、そんなことないですよ。
むしろ、独りぼっちで寂しいなって思ってたところですから」

青年はそう言って視線を外した。
もの悲しげな横顔だった。
彼女はその横顔をながめていた。
それから、ややあって口を開いた。

「あの、もしよろしければ、赤い砂を探すの、しばらく手伝ってもいいですか」

青年は彼女を見上げた。
それからおずおずと答えた。

「ええ、そうしてくれるならありがたいです。
あ、でも」

青年はとまどうそぶりを見せて、それから言った。

「名前を」

彼女は「あ」と小さくつぶやいて、それから名乗った。

「安藤優莉亜です」

青年は微笑んで言った。

「瀬戸陽介です」

雲が途切れて、光の筋がこぼれ始めた。



それから優莉亜は、陽介と一緒に赤い砂を探した。
探すといくらかは見つかったが、それらは陽介を満足させなかった。
優莉亜が見つけて渡すたびに、陽介は首を横に振った。
日が暮れて、優莉亜は砂浜を後にした。
次の日も、優莉亜は砂浜に来た。
その次の日も、優莉亜は砂浜に来た。
そうして優莉亜が来るときはいつも、陽介はもう砂浜にいた。
二人はそろって赤い砂を探した。
そして話をして、笑った。

あるとき、陽介は優莉亜に尋ねた。

「優莉亜さんは、この砂浜と風景をどう思いますか?」

優莉亜は辺りをながめた。
それから、ゆっくりと答えた。

「素敵だと思います。
癒されるというか、すごく心を惹きつけて。
なんていうか、このまま景色の中に溶け込めそうな」

陽介は微笑んだ。
砂はまだ見つからないまま、今日も日は暮れた。



陽介がいなかった。
出会ってから、七日後のことだった。
優莉亜はぼう然と砂浜に立ちつくした。
それから、誰もいない砂浜に呼びかけた。

「陽介さん?」

返事はなかった。
ただ、波音だけが響いた。
優莉亜はもう一度呼びかけた。

「陽介さん」

優莉亜の声は、波音にかき消された。
優莉亜はふらふらと砂にかがんだ。
波音のほかは、ただ静かだった。
優莉亜のほおを涙が伝った。
優莉亜は指先に砂をすくった。
流れる砂の中に、赤い砂はなかった。
優莉亜は涙を拭いた。
それから黙々と、赤い砂を探した。
消え入りそうになりながら、優莉亜は砂を探し続けた。

それからしばらくして、優莉亜の耳に声が届いた。

「あの」

優莉亜は顔を上げた。
陽介ではない、日焼けした肌の青年がそこにいた。
優莉亜の顔を見て、青年は続けた。

「あの、何か探してるんですか」

優莉亜は青年を見つめた。
それから視線を指先に戻して、静かに言った。

「赤い砂を、探しているんです」

「赤い砂?」

オウム返しに青年は尋ねた。
優莉亜はうなずいて答えた。

「そうです。
赤い砂です」

青年はそれから、赤い砂探しを手伝った。
青年は拓海と名乗った。
拓海は毎日砂浜に来た。
砂浜に来て、いつも砂浜にいる優莉亜を手伝った。
二人でいる間、優莉亜は笑った。
しかし一人になると、優莉亜はひたすらに寂しかった。
寂しくて、朝早くから夜遅くまで砂を探し続けた。
拓海が赤い砂を見つけると、優莉亜は陽介を思い出して首を振った。

「これは私の探している砂ではありません」



拓海と出会ってから七日目の夜だった。
赤い砂を探していた優莉亜の指が、ふと砂をつかめなくなった。
優莉亜は目を閉じた。
優莉亜の体が、ゆっくりと変化した。
優莉亜は砂になった。
鮮やかに光る、ひとつぶの赤い砂になった。
赤い砂はぽとりと落ちて、ほかの赤い砂と見分けがつかなくなった。
優莉亜は幸せだった。
ただひとつ気がかりだったのは、陽介がどこにいるか分からないことだった。

日が昇って、拓海が砂浜にやって来る。
その拓海に、誰か女性が声をかける。
その女性にも、また別の男性が声をかける。
百年が、千年が、長い年月がそうやって過ぎていく。
やがてこの砂浜は、赤く染まる。
そうしてこの砂浜が、赤い砂浜と呼ばれるまで。

私たちは、ここにいる。



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