白く輝く満月は西の彼方に遠のき、星々が空を占領した。
辺りの砂利は淡く照らされ、かすかに瞬きを反射していた。
夜明けは近くとも、陽はまだ遠い。
彼の薄いマントでは、その夜にあまりにも心もとなかった。
冬の夜に、肌は張り裂けそうだった。
自らの心と似ている、彼はそう感じた。
「クロウ……もう起きてたの?」
テントの中から、細い声が届いた。
「残念ながら外れだ。俺は昨日から一睡もしてない」
振り返って言葉を返すクロウの顔は、微笑みとも苦笑いともつかない微妙な笑みを浮かべていた。
そろそろとティンクはテントから這い出し、クロウの横に座った。
クロウも無言で腰を下ろす。
「悩みがあるなら、誰かに相談した方がいいよ」
うつむいたままティンクは言う。
クロウは何も返さない。眼は髪に、口元はマントにさえぎられている。
「分かるんだから。クロウが何かすごくつらいってこと。
他のみんなと一緒にいて、そういうのも分かるようになったんだから。
子供だって思ってるならそれは違うよ」
「子ども扱いはした覚えがない。妖精は長生きするものだろう」
笑みと共に返事が出てきた。
おかしくて笑うというより、皮肉るような笑いだった。
「別に、妖精だからって長生きなわけじゃないよ。
私だって、まだ二十年も生きてない」
「ほう?」
それはクロウの興味を惹いたらしく、クロウの顔はティンクの方に向いていた。
暗がりで見えづらかったが、ティンクの表情は確かに悲しみのそれだとクロウは感じた。
「千年も二千年も……つらいじゃん。
人間の世の中で生きていこうと思ったら」
うつむき加減でティンクは言った。
クロウは何も言わず、ただティンクを見つめていた。
続きを言おうかどうか、ティンクは迷っていた。
ただクロウの視線は、待っているようにティンクに刺さって離れない。
続きを聞かせろと、プレッシャーをかけているのかもしれない。
あるいはティンクの心の内を、見透かそうとしているのかもしれない。
「……人間世界は」
堪えきれず、考えるより先に喋りだした。
「人間世界は、変わるのが早すぎるから。
あんまり早く変わるから、私みたいな種族は追いつけなかった」
堰(せき)を切ったように、ティンクは喋った。
クロウは何も言わない。
「科学で何もかも解明しようとした人間を、私たちは恐れた。
神とか魔法とか精霊とか、私たちのすべてが謎の存在になろうとしていた。
自分たちがなんなのか、その答えをどうしようもなく求めてしまった。
それが分からないから、私たちは魔法を捨てだした」
プレッシャーに押されるように、ティンクは喋り続けた。
クロウは何も言わない。
「どうしようもなく貪欲に人間は、土地を求めた。
自分の場所を求めていた。
住む場所を失った妖精たちは、遠くへ逃れ、あるいは人間に紛れ込んだ」
口が勝手に言葉を吐き出していた。
クロウは何も言わない。
「地上以上に、空は人間のものだった。
人の空は塵が舞い、有害物質にまみれ、電線が張り巡らされ、
それらがなければ鉄砲玉が飛ぶ。
耐えられなくなって、とうとう羽を捨てだした」
紡がれる言葉が止められなかった。
クロウは何も言わない。
「それから」
ティンクの語調がついと強くなった。
「人の心は、あまりにも繊細だった」
クロウの瞳の奥が揺らいだ気がした。
それでもクロウは何も言わない。
「人は生きていれば、必ず何か失う。
親が死ぬ。恋人が死ぬ。友達が死ぬ。誰かが死ぬ。
人だけじゃない、ペットとか、いろいろ大切なものとか、何か絶対に失う。
そうして人の心は、だんだん壊れていく。
失うものがない人は、初めから崩れ始めている」
切り込むようにティンクは喋る。
クロウは何も言わない。
「人に紛れて、人の心を手に入れた精霊や妖精は、だんだん心が壊れていく。
千年も二千年も、生きていられるわけがない」
切なさにも似た響きをもって、ティンクは喋る。
クロウは何も言わない。
「私たちは人の心と引き換えに、長い寿命を失った。
望んで捨てた。手に入れた。
人間ほど美しい心を持った生き物はいなかった」
クロウの顔が一瞬、強ばったような気がした。
ティンクはただただ喋り続ける。
クロウは何も言わない。
「大切な人が死んで、悲しむ。心を痛める。
気が狂うほど人を愛しく思う。
人だけでなく、他の生き物にも、時には無生物にさえ、深い愛を注ぐ。
そんな生き物は、人間以外にいなかった。
いたとしても、自分の心身を削るまで愛せる者なんていなかった。
人間ほど、愛せる生き物はいなかった」
ティンクの言葉は脆かった。そして鋭かった。
クロウは何も言わない。
「人の心を手に入れて、長い寿命を捨てた。
捨てざるを得なかった。
千年も二千年も、人の心はもたないから」
その言葉は世界の真実のようにも聞こえたし、馬鹿げた空言のようにも思えた。
クロウは何も言わない。
「でも、人の心っていうのは、強欲なものでもあるから。
人の心と長い寿命と、両方を求める者もいた。
でも人の心は脆すぎるから。
だから、人の心で千年も二千年も生きてたら、そのうち狂って馬鹿やっちゃうんだよ」
「それが魔王か」
ようやくクロウが口を開いた。
ティンクは何も答えなかった。
沈黙が続いた。
声が止んで、辺りを暗がりが支配した。
二人の距離が離れたような感覚があった。
何か言おうと思うティンクだが、のどがつかえて言葉が出ない。
彼の声が届いたのはそんな時だった。
「おはよう。二人とも早いね」
「貴様か」
振り返ったクロウは、表情変えずにそう言った。
そこにいたのはブロントだった。
微笑みをたたえて、二人を見守っていた。
舌打ちをひとつして、クロウはブロントを半ば睨みつけるように見た。
ブロントは、不思議な存在だった。
たくましく男らしい肉体を持っているかと思えば、顔は女のように白く、繊細で、美しい。
にこにこと笑っているが、どこかに哀愁を漂わせている感じがする。
表情豊かに見えるが、彼自身の感情はそのどこにもないように感じる。
リーダーとしてパーティーの中核を担っているが、その彼自身は空虚感を持つように思える。
皆に的確なアドバイスをして導いてくれるが、それが悪魔のささやきに聞こえるときがある。
誰とでも親しくなれる感じだが、誰からとも距離を置いているような感じもある。
誰も近づけないような孤高の雰囲気があるが、クロウも彼に惹かれた。
相反する事柄が渦巻いて、その中心には何もない。
今にも壊れそうなその均衡で、確かに彼は存在する。
「テントに戻ったほうがいいよ。まだ寒い」
そう言ってブロントは背を向けた。
「おまえは何よりもこの世界に似ている」
クロウは思わず口ずさんだ。
「そうだね」
振り返らず、ブロントは短く返事をした。
「おまえは何よりもこの世界から遠い存在だ」
再びクロウは口ずさんだ。
「その通り」
再びブロントは、短く答えた。
相反するふたつの詞(ことば)。
そしてまた渦を巻き始め、混沌という秩序、秩序という混沌へ導く。
「下らん」
クロウは考えるのをやめた。
自分はどうかしている、いつからこんな哲学的なことに取り組むようになった。
今にも壊れそうなのは、この馬鹿馬鹿しい考えのほうだ。
クロウはかぶりを振って立ち上がり、テントに向けて歩き出した。
足音は砂利に響き、夜明け前に響いた。
二人の背中を見つめながら、ティンクはしばし感傷にふけった。
しかしそれもすぐにやめて、クロウの後を追うことにした。
二人の姿を見つめながら、ティンクはそっと羽ばたいた。
無音の小さな羽ばたきは、夜明け前の心に沁みた。
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