桜が、やわらかに咲きほこっていた。

高校の校舎の屋上で、雷牙は手すりにもたれかかりながら空を見ていた。
よく晴れた、きれいな空だった。
雷牙は桜風を吸い込むと、その空に向かってぽっかりとため息を浮かべた。
ため息とともに、無意識のうちに言葉が出ていた。

「いっちゃったぁ、夕樹」

裏地夕樹は、告げられた通り半年で夭逝した。
桜のつぼみが、ようやくほころび始めたころだった。
夕樹は結局、自分のことを忘れろとも忘れるなとも言わなかった。
ただ変わらずに、彼女として接して、笑って、そして眠っていった。

うららかな空に向かって、雷牙は手を伸ばした。
その指にはただ風だけがからまって、そしてつかめもせずにほどけていった。
涙は流れなかった。
ただ言葉だけが、雷牙の口から流れた。

「最後まで、君はボクを信じきっていた。
何を信じていたんだろう。
自分がいなくなった後も、変わらずに好きでいてくれることだろうか。
それともボクが前を向いて、別の誰かを好きになることだろうか」

雷牙はそれから、悲しげに表情をゆがめた。
伸ばした腕の先の空を見つめて、雷牙はつぶやいた。

「無茶言わないでよ」

雷牙は両手を手すりについて、体をまっすぐに持ち上げた。
桜の花びらが流れてきて、雷牙を後ろから前へと追い抜いていった。
風に揺すられて、くせ毛がふわふわと浮いていた。
雷牙の瞳は、空を映していた。
その瞳がふっと、うつろに細められた。

「もし君が、ボクを一緒に連れて行ってくれてたら」

背中を押されたような感触が、そのとき確かに感じられた。

意図したことではなかった。
雷牙の体は、宙に飛び出していた。
風に吹かれる桜が、雷牙の横を併走しているのが見えた。
その視界は落下の感覚と同時に、ぐるりと回転して桜も風も見失った。
三階分の高低差が、視界と内臓に奇妙なリアルさで押し迫った。

そのとき雷牙は、天使を見つけた。
地上の天使は彼を見上げて、ぽかんとそこに突っ立っていた。
天使は眼鏡をかけていた。
彼女のポニーテールに、巻き上げられた桜の花びらが貼りついた。


   *


薄氷のように真っ白な陽光が、樹木の下に濃厚な木陰を貼りつけていた。
その木陰をかぶって、雷牙は腰を下ろしていた。
蝉時雨は今も、かげることなく鳴り続けていた。

前方の墓地に視界を投げかけながら、雷牙は喋った。

「花澄には、まだ話してないんだ」

麦わら帽子の乗せられたキャリーバッグから、理依渡は雷牙を振り返った。
雷牙は視線を返した。
黒く張った木陰の中で、理依渡は黄色い瞳を雷牙に向けた。

ふっと小さな笑みをこぼして、雷牙は話しかけた。

「理依渡に初めて話した。
花澄は夕樹のこと、これっぽっちも知らないんだ。
何も知らずに、純粋にボクに付き合ってくれている。
ボクは今でも、夕樹の影を追いかけているっていうのに」

雷牙はそれから、視線を前に向けた。
視線の先には、黒い木の葉のひさしがかかった紺碧の空があった。
湿度を含んだぬるい風が、雷牙の髪を後ろからなぜていった。
その横顔を、理依渡は見ていた。

雷牙は不意に、口を開いた。

「でも、それだけじゃない」

雷牙は麦わら帽子をわしづかみに取った。
理依渡はぴくりと首を伸ばした。
麦わら帽子をひたいに当てながら、雷牙は喋り続けた。

「花澄の彼氏として、ボクはボク自身に満足してない。
花澄のまぶしさに触れれば触れるほど、ボクに足りないものがどんどん見えてくるんだ。
ボクは今、その足りないものをひとつずつ埋めようとしてる。
そうして理想の自分まであと一歩のところまできたら、そこで初めて夕樹のことを話す」

雷牙は立ち上がりながら、麦わら帽子をスライドさせた。
せり出した瞳で上を見上げながら、雷牙は言い切った。

「そのとき初めて、ボクは本当の意味で花澄の彼氏になれるんだ」

木の葉が、蝉時雨に寄り添ってさわさわと鳴った。
揺れる木陰のすき間から、太陽の光がちらちらとこぼれた。
雷牙は振り返った。
理依渡の視線にさらされた雷牙の顔は、笑っていた。

「花澄には言うなよ、今の話」

そして雷牙は、キャリーバッグを引っつかんだ。

木陰から足を踏み出してすぐ、雷牙は遠くに花澄の姿を見つけた。
手を振る花澄に手を振り返して、雷牙は墓石の間をぬっていった。
墓石は陽光をたたえて、雷牙の目を細めさせた。
花澄に近づくにつれて、花澄の姿は鮮明になっていった。
いつもの眼鏡とポニーテールの上に、サンバイザーがつけられていた。
服は肩と胸が大きく出ていて、そこにも陽光はきらめいていた。
そして右手には、大型の水鉄砲が装備されていた。

雷牙がぎくりと気づいたとき、水鉄砲はもう発射されていた。
雷牙は高圧の水に顔を打たれて、思わずその場にしりもちをついた。
雷牙は目をぱちくりさせた。
その雷牙を花澄は逆光で見下ろして、水鉄砲を肩に乗せながら言葉を降らせた。

「誰の墓参りだか知らないけど、シャキッとしなさいよ。
こっちに来るときのあんたの顔、すんごくシケた顔だったわよ」

それから花澄は、放り出されたキャリーバッグを拾い上げて中に話しかけた。

「ごめんねー理依渡、預けっぱなしな上に巻き込んじゃって。
うらむんならリカとナツホと雷牙をうらんでね、うふふ」

理依渡は目をぱちくりさせて、ひかえめににゃあと鳴いた。
雷牙は髪の毛から水をしたたらせながら、花澄を見上げて尋ねた。

「花澄、その水鉄砲は」

「ん、下の弟に借りたの」

花澄はそれから、せつなげな視線を少しだけ投げかけてから喋った。

「墓参りの相手が誰なのかはあえて聞かないけどさ、あたしに変な気遣いはしないで。
隠し事があるのは別に構わないけど、それで負い目を感じてあたしに申し訳なく思うなら
そっちの方がよっぽどイヤな気持ちになるから」

雷牙は、ぼう然と目を見開いた。
花澄はさっさと視線をはずして、両手の荷物を脇に置いた。
それから雷牙に向き直って、右手を差し伸べながら笑いかけた。

「ほら、立ちなさい」

雷牙は、花澄を見つめた。
背中に太陽を受けて、花澄の輪郭はかがやいていた。
雷牙はまぶしくて、目を細めた。
それからゆっくりと、右手を伸ばした。
その右手は花澄の右手を通り過ぎて、花澄の乳房をつかんだ。

理依渡がぎゅっと目を閉じた。
鈍い音が響いた。
花澄の後ろ回し蹴りが、雷牙の側頭部にクリーンヒットしていた。
雷牙はふらりと真横に倒れた。
倒れた雷牙をぐりぐりと踏んづけながら、花澄はガミガミとののしった。

「まったくあんた、何考えてんのよ。
なーんで胸をつかむのよ胸を。
そういうことやってるからあんたはバカなのよ、アホなのよ、変態なのよ」

そして花澄は、爪先で雷牙の体を蹴り上げた。
浮いた体を引っつかむと、花澄はその腕を肩にかけながら息巻いた。

「ほら、ゲーセン行くわよ。
あたしたちが東京にいる間にずいぶんゲームが入れ替えられたらしいから、
あんたのコインの続く限り遊び倒すわよ」

「花澄、いい匂いがする」

不意に雷牙に言われて、花澄はぴくりと動きを止めた。
めまいを起こした頭のまま、雷牙は花澄のうなじに鼻を寄せてささやいた。

「香水つけてるね」

遠くの方で、蝉の鳴き声がしていた。
サンバイザーの下で、花澄の顔がかあっと赤くなった。
花澄は唐突に雷牙の体を突き放すと、どもりながらがむしゃらに怒鳴り散らした。

「い、い、い、いーじゃないのよあたしが香水つけたって。
なななナツホがあんまり勧めるから、ああああたしはこんなのつけたくなかったけど、
ららら雷牙もきっと気に入ってくれるって言うし、
ああああたしはあんたがこんなの気づくとは思ってなかったけど、
た、た、たまにはオシャレに気を遣うのも悪くないっていうか、
別にああああんたのためとかそういうんじゃなくて、な、な、なんていうか、
あたしだってたまには色気を出すこともあるのよっ。
悪いのっ」

「いや別に、馬子にも衣装って言葉もあるし」

花澄の正拳突きが雷牙の顔面に入った。
ふらついた雷牙のあごに、追撃の掌底アッパーが炸裂した。
雷牙の体が宙に浮いたところで、花澄はとどめの真空飛びひざ蹴りをぶちかました。
それから二人は、主に花澄の一方的な口論に突入した。
一連の様子を、理依渡はキャリーバッグの中からじっと見ていた。
それから不意にあくびをすると、理依渡は腕の中に顔をうずめた。
目を閉じる寸前、理依渡は雷牙のこぼした八重歯を確認した。

陽光は今も輝き白く、蝉時雨はいよいよ声高く響き渡った。
散々にわめく二人の声は、いつしか笑い声が混じっていた。
青い空は、どこまでも続いていた。









<happy prime>






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