剣姫ピシュリィ伝前伝 夜想呪花(後編)

月はなく、星だけが森を横断する山道を照らしていた。

静けさを荒い息でかき分けて、リックは道中を走った。
彼は基礎魔法の心得があったので、俊敏性を上げる魔法を自分にかけ、その足で地面を蹴っていた。
背に負ったピッシュの息が熱く耳にかかり、流れる汗が、防具越しにも背中に感じられた。
こわばった彼女の体は、時々びくんと、締めつけられるように震えていた。

狩りの時間に目覚めたモンスターが、森の中から牙をむいた。
身をかわしそこねて、リックの腕から血が流れた。
リックは攻撃力を上げる基礎魔法を唱えて、魔力のこもった剣を振り回した。
ひるむモンスターに、追い討ちもかけることなくリックはひた走った。

着実に進みながら、リックは確実に消耗していた。
傷が増え、魔力を喪失し、それでもリックは道程の中ほどまで到達していた。
いけそうだと、リックにそういう感情が浮かぶ頃合いだった。

森の空気が、がらりと変わった。

夢中で走っていたリックは、壁にぶつかったように立ち止まった。
走っている間は意識しなかった疲労感が上ってきたが、それに気をやっているヒマはなかった。
リックの行く手に、今までとは違う大型のモンスターがいた。

――テンタクルベアー。

リックの脳内に、該当する知識があった。
動物質の器官と植物質の器官が混在し、体躯の中心部は動物のクマに似、
体毛に相当する部分は伸縮自在の太い触手になっていて、冒険者をからめ取って捕食する。
その知識と合致するモンスターが、リックの真正面にいた。

リックの肌が、ぞくりと鳥肌立った。
目の前のモンスターは、中級ランクの称号を受けている冒険者ですら、
単独戦闘は避けたがるものであった。
それが今、リックに向けて明らかな臨戦態勢の牙をむき、触手をぬらぬらと動かしていた。

リックの体が、自然に後ろへ下がろうとした。
その体を、踏ん張るように地面を踏んで押しとどめた。
ここで後退しても、戻る道には追い払うだけにとどめたモンスターがひしめいている。
それにここで引き返したら、ピッシュの危機は何ひとつ解消されはしない。

リックは肩に回したピッシュの腕を、きゅっと握った。
腕は汗でじっとりと湿り、血管がリックの手をはねのけるように強く脈打っていた。
それ以上にリックの心臓は、高鳴っていた。
血管が白く発光し溶けてしまうような緊迫感が、リックの全身を駆けめぐっていた。
背負ったピッシュが、おびえとも抑止とも取れるような、無意識の震えを起こした。

リックは再度、覚悟を決めた。

ありったけの魔力をつぎ込んで、リックは攻撃力を上げた。
地面を全力で蹴って、触手の塊へ魔力を帯びた剣を一気に突き出した。
剣は触手の五、六本を切り飛ばして、勢いを殺された。
完全に切断されず焼けるにとどまった触手が、剣をぐるぐると取り巻いた。
手を離す間もなく、触手はリックの手まで到達した。

リックの体が、わっと宙に放り上げられた。

強引に放り上げられたため、リックはまず肩を痛めた。
体は軽々とベアーの頭上を越え、ピッシュと離れて地面に落ちた。
まともに受け身も取れずに顔面と肋骨を強打し、さらに触手に毒を注入されて、
筋肉に力が入らなくなっていた。

残った筋力を精一杯使って、リックは首をピッシュの方に向けた。
リックの上着を羽織らせただけのピッシュの体が、土の上にぐったりと横たわっていた。
そのピッシュの肢体に、ベアーの触手がまとわりついた。
高々とかかげられたピッシュの体から上着が落ちて、ピッシュの素肌があらわになった。

リックは体を動かそうとした。
必死でもがいても声を出そうとしても、筋肉はゆるんだままだった。
ベアーの太い触手はピッシュの肌をぬらりとなで、汗蒸れる四肢にからみついた。
触手がその身を強く締めて、筋肉がぞくりと震え、顔が苦悶にゆがんだ。
逆さづりにしたピッシュの頭に、唾液を糸引かせたベアーの牙が近づいた。

そのとき炎の玉が落ちてきて、ベアーの体に直撃した。

ベアーは炎に巻かれて、苦痛にのたうち回ってピッシュを落とした。
リックの肌に、大きな生き物が羽ばたく風が当たった。
宙にいたのは、小型のドラゴンだった。
ドラゴンはリックの眼前、ピッシュのかたわらに着地して、その背から人間が降りた。
ピッシュと同年代の、青い僧衣と帽子の僧侶だった。
僧侶は黒髪でメガネをかけ、手に白色のロッドを持っていた。
彼はくるりとリックに振り返ると、微笑みながら言葉をつむいだ。

「あなたの姿が、千里眼の魔法で見えました。
ピッシュを連れてきていただいて、ありがとうございます」

炎を振り払って、ベアーが僧侶に襲いかかろうとした。
ドラゴンが間に入って、ベアーの体に組みついて押し戻した。
僧侶はロッドを振って、ドラゴンに白い光をまとわせた。
光は防御力と自然治癒力を高める魔法だった。
僧侶はピッシュの脇に片膝をついて、ピッシュを見たままリックに喋った。

「あなたの毒も処置したいところですが、今はこっちが急務です。
すみませんが、これが済むまでしばらくガマンしていてください」

僧侶が魔法を唱えて、ピッシュが白い光に包まれた。
魔法の処置が終わるまで、ドラゴンがベアーを抑える役目をしていた。
僧侶の魔法が合わさっても、力はベアーの方が上だった。
ドラゴンは抵抗しながらも触手にギリギリと締め上げられ、徐々に組み敷かれていった。
やがて力及ばずその鱗身がベアーの足に踏みにじられようとしたとき、僧侶の魔法が仕上がった。

ピッシュの手が、リックの剣を拾った。

ドラゴンに気を向けていたベアーの胴に、切れ込みが入った。
苦痛のうなりを上げるベアーの後ろに、剣を振り抜いたピッシュがいた。
振り向いたベアーに、ピッシュは剣を突きつけてのたまった。

「やい、やい、あんた。
よくもあたしの玉の肌に、汚らしい触手を巻きつけてくれたわね。
あたしとて乙女なのよ、たとえ性癖が女の子好きだろうとね」

ベアーが動く前に、ピッシュが二撃目を当てにいった。
ベアーに傷が増えて、剣から血の筋が流れた。
このときピッシュが舌打ちをしたのは、
ここまでの二撃が有効打にならないくらいベアーの防御力が高かったからだった。

ベアーは深く咆哮して、予想外に速い速度でピッシュに突進した。
ピッシュは後方に避けようとしてスピードが間に合わず、剣で防御しながら後方に突き飛ばされた。
ピッシュは肌をすりむきながら受け身を取ると、髪を後ろに流してから魔法を唱えた。
リックのときとは比べものにならないほどの魔力が、剣に集まった。
ベアーがいっせいに触手を繰り出すと、ピッシュはそれを真っ向から突っ切った。
本気の一撃だった。
肌に触手をかすめながらベアーの胴に刺突を入れると、
ベアーは落雷を受けたように白く光り、爆発した。

すり傷をなめながら、ピッシュはいまいましげに片目を細めた。
テンタクルベアーの触手は一本一本が独立して動き、本体から切り離されても生き続ける。
それぞれに存在する神経節をつぶさない限り、捕食行動は止まらない。

剣を構え直して、ピッシュは金の瞳をめぐらせた。
爆裂して飛び散った触手たちは、ぐるりとピッシュを取り囲んで一様にピッシュを狙っていた。
ピッシュは八重歯に舌をはわせて、再度剣に魔力を込めた。

触手たちはいっせいに、ピッシュに向かって飛びかかった。
最初の触手がピッシュに届く寸前、ピッシュは技の名前を唱えた。

「白桜乱舞(ハクオウランブ)!」

ピッシュは回転運動して、剣の魔力が振りまかれた。
魔力は白く発光して花弁のように舞い、触手の体を切りきざんだ。
四方から襲いかかった触手たちが、四方へ押し返されながらこま切れになった。

ピッシュが回転運動をやめると、触手の破片はばしゃばしゃと地面に落ちた。
地面は触手の体液で赤く染まったが、ピッシュの体はきれいなままだった。
剣先に少しだけ残った魔力の光を、ピッシュはふっと息を吹きかけて飛ばした。

リックの毒の処置を終えた僧侶が、ピッシュに歩み寄った。
次の瞬間にはピッシュから跳び蹴りをもらい、
こんな夜遅い時間にいやにいいタイミングで現れたなとののしられた。
リックは呆然として、ベアーの血のにおいを鼻腔に感じながら二人を見ていた。
ややあって、顔面ボコボコの僧侶がリックにあいさつした。

「リックさんですね、次の町で僧侶をしてるシングという者です。
ピッシュの幼馴染です」

「あとドレイね」

シングはピッシュに踏みつけられた。
それからピッシュはくしゃみをして、ぶるりと身震いしてからこぼした。

「寒い。
こんなハダカで汗かいて真夜中じゃ当然か」

それからピッシュは、荷物が全部前の町の宿所にあることに気づいた。
シングはドラゴンをなでながら、この子じゃがんばって二人までしか乗れないよと釘を刺した。
ピッシュは極端なくらいげんなりしながら、落ちた上着をまとってリックに詰め寄った。

「そういうわけだから、責任持ってあたしを前の町まで送り届けなさい。
だいたいね、あの程度の呪いならホントにひと晩くらい耐えれたのよ。
日が出たら弱まるタイプの呪いだったし、正直あんたのがんばりは余計なお世話だったのよ、
余計なお世話」

リックは縮こまって、ごめんなさいと謝った。
そのあまりにもしょんぼりした様子を見て、ピッシュは視線をそらせながら口調を改めた。

「でも、まあ、苦しかったのは事実だったけどね。
結果的に早く呪いを解けたし、もともとあたしが悪かったわけだし。
がんばりに対して、ごほーびはあげとくか」

きょとんとするリックに、ピッシュは近づいてほっぺにキスをした。
ワンテンポ遅れて慌てふためくリックを尻目に、ピッシュはまた後でうかがうとシングに伝えた。
それからピッシュはリックの首根っこをつかんで、前の町への道を歩いていった。
引かれながら、君たちは何者なんだとリックが尋ねると、ピッシュはひょうひょうと答えた。

「ただの冒険者だよ。
ただ単にものすごく強くて、女の子が好きなだけのね」

シングは二人の後ろ姿を見送って、ドラゴンにまたがって帰っていった。
ピッシュは道中を進みながらモンスターに襲われると剣を振るい、
ひと段落つくと魔力を使いすぎたと言ってリックにおぶさったが、
再度モンスターに襲われると、また元気に剣をぶん回した。
星々だけが、彼らの姿を見ていた。



それから数年後、彼女は一躍有名人となる。
本名ピシュリィ=クロライド、悪の魔王を討伐する伝説の女剣士。
しかしそれはまた、別の話。









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