黒井雷牙と岡元花澄は同じ高校を卒業し、違うところではあるがどちらも東京の大学へ進学した。
雷牙は姉夫婦の家へ居候し、花澄はボロアパートで一人暮らししている。
付き合ってはいるが未だ一線を越えてはいない。
花澄いわく「まだそのタイミングじゃない」そうだ。
彼らの生活になんら大きな変化は見られなかった。
今日までは。


   *


「捨ててきなさい」

一日の講義を終えて帰宅した花澄が、部屋の真ん中に座り段ボール箱を抱えつつ
にかにかと八重歯を見せる雷牙を見て最初に漏らした言葉がこれである。

「なんだよ花澄ー、まだこれがなんなのか一言も言ってないよ」
「言わなくても予想つくわよ。恐ろしいくらいにね」
「やったね花澄、エスパー覚醒だ」

楽しそうに言う雷牙の頭にチョップが降った。

「痛いにゃー、にゃにすんにゃよー」
「やっぱり猫ね」

雷牙の腕から段ボール箱を引っぺがした。
花澄の予想通り、段ボール箱の中には薄茶と濃茶のぶち模様をした猫が丸まっていた。
薄汚れていて、元気がないように見える。

「大学のそばに捨てられてたんだよー、ねー飼おうよー」
「どこで」
「ここで」
「捨ててきなさい」

眼鏡のフチをつまみ上げつつ同じセリフをさっきより強い口調で言った。
雷牙はしゅーんと縮こまった。

「かわいそうじゃんかー、助けてあげようよー」
「あんたん家で飼えばいいじゃない」

雷牙は両手の人差し指を合わせてウジウジしだした。

「お姉ちゃんもお義兄ちゃんも猫嫌いなんだよ。
居候のボクがあんまり強いこと言えないし、花澄にしか頼めないんだよ」
「そう、じゃあ残念だったわね。この猫にもう希望の光はないわよ」
「花澄、いくらなんでもその言い方は酷いよ」
「無責任に拾ってくるあんたが悪い」
「花澄ー」

下唇に人差し指を当てて上目遣いに花澄を見つめた。
涙目、困り顔。胸キュン。

「あ、あたしはそんなお色気攻撃には屈しないんだからっ」

花澄は必死に視線をそらした。

「花澄ー」
「屈しない、屈しないーっ」

にじり寄る雷牙に花澄は爪先でにじり逃げた。
視線は上方にそらしたまま、そのため足元が見えていなかった。
つまずいたのは鉄アレイ、止めるすべはなかった。

「あ、ぎゃあっ」

花澄は盛大な音を立てて仰向けに転び、猫の入った段ボール箱は宙を舞って別の場所に落下した。

「あっ、猫ちゃん」

雷牙は慌てて段ボール箱に駆け寄った。
中を確認して、一安心して八重歯をのぞかせた。

「よかったー、怪我はしてないみたいだね」
「あたしを先に心配しろっての」

雷牙の背後から花澄の怒り顔が迫った。
雷牙は振り向いて真顔で答えた。

「そうだね、飼い主が怪我したら猫ちゃんの世話が大変だもんね」

グーが顔面にめり込んだ。
雷牙は鼻血を流しながら倒れた。
ティッシュの箱を投げつけつつ、花澄は言った。

「大体ね、このアパートだって基本的にはペット不可なのよ。
高い追加料金払って初めてペット可になるの」

雷牙は手早く鼻血を処理して答えた。

「大丈夫だよ、追加料金はボクが払うから。
花澄へのプレゼント代を削って」
「あたしは猫以下かい」

花澄のツッコミ手刀が雷牙に刺さった。
雷牙はへらへらと笑いつつ、段ボール箱から猫を抱え上げた。

「ちょっと雷牙、どうする気よ」
「飼い主とのご対面」
「まだ飼うなんて言ってないでしょ」

制止する花澄を尻目に、雷牙は猫を床に置いた。
先ほど見たときは茶色い玉でしかなかったそれが、床を確かめるようにぺたぺたと前足を動かし、
そろりと目を開けた。
茶色い毛に映える澄んだ黄金の瞳、それがゆらゆらと辺りを眺め、花澄を捉えた。

「な、何よ」

思わず睨み返した。
雷牙がぺちんと頭を叩いた。

「威嚇してどうすんのさ」
「うっさいわね、あんたにツッコまれたくないわよ」

叩き返されて、雷牙は痛そうに頭を抱えてうずくまった。
花澄はため息をついて、改めて猫の方に目をやった。

猫は相変わらず花澄を見つめている。
両者とも微動だにしないまま、しばらく見つめ合っていた。
しばらくして猫が控えめににゃあと鳴くと、花澄はびくっと震えた。

「な、何よ」
「花澄、ビビり過ぎー」

雷牙に再びグーが入った。
花澄は恐る恐る猫に手を差し伸べた。
猫は手を見つめ、もう一度花澄の顔を見つめ、それから舌先で花澄の指をぺろぺろとなめた。

「ひゃ、わわわわ」

猫の舌はざらざらして、今まで経験したことのない感触だった。
そのえも言われぬ感触に、花澄は思わずテンションを上げて悶えた。

「ちょっちょちょちょ、それヤバいヤバいヤバいって、きゃーっ」

猫はなめ続け、花澄は顔を高潮させて笑いながらくねり、
その様子を見ていた雷牙が不満そうに口をとがらせた。

「なんだよなんだよ、自分たちだけ楽しんじゃってさー。
そんなに気持ちいいんなら、ボクがなめてやるよ」

またしてもグーが入った。
花澄はなめられている方の手を猫の口から離して、背中をなでた。
猫は気持ちよさそうに目を閉じて、にゃあと鳴いた。
花澄はくすっと笑い、それからはっとした。

「あたし思いっきり和んじゃってるし」

雷牙はあははと八重歯をちらつかせた。

「もう、飼っちゃいなよ」
「んー、でもねー」

花澄は鼻でため息をついて、猫に当てていた手を引っ込めた。
猫はその手を追おうとして立ち上がりかけ、それからふらりとくずおれた。
花澄は驚いて猫に顔を近づけた。

「どうしたの。まさか立てないの」
「ああ、その子ね」

雷牙は少し言いづらそうに言った。

「神経がやられてるらしくて、足がうまく動かないんだよ。
歩けないわけじゃないんだけどふらふらして、それで一生治らないって」









第3話

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