段ボール箱の中で、猫はひたすらに丸まっていた。
今自分がどこにいるのかも興味を示さず。
今誰が自分のことを見ているのかも興味を示さず。
自分が捨て猫となったことを知っているのか、それとも知らないのか。
猫はひたすらに丸まっていた。
そうしていると、不意に誰かが彼を抱き上げた。


   *


花澄は雷牙の言葉を聞いて、雷牙の方に振り返った。
驚きというか、困惑というか、とにかくそのような感情が出てきて、花澄の思考を止めた。
特に意識せず、疑問形の言葉が口をついて出た。

「障害があるの」

雷牙はうなずいた。
その後で、取り繕うように慌てた笑顔を作って言った。

「いや、障害って言っても、別に生きてけないほどじゃないんだ。
走ったり跳んだりはできなくても歩くことは普通にできるし」
さっきは転んじゃったけどさ、と付け加えて続けた。
「でも別に、普通に家で飼ってる分には全然問題ないんだよ。
それにほら、下手に走り回ることもないから普通の猫より飼いやすいかもしれないし」

花澄は雷牙から顔をそらして、猫を見つめ直した。
猫は前足をなめていた。
神経の障害、この猫がそれを理解しているのかは分からない。
花澄は視線をそのままに、雷牙に尋ねた。

「家で飼うには、ってことは、おっ放り出したら生きてけないってこと」

「飼い猫は野良としては生きられないよ、障害のあるなし関係なく」
雷牙はすぐにきっぱりと答えた。

花澄は正座に座り直して、また猫を見つめた。
花澄の思いつめた空気を感じたのか、猫は前足をなめるのをやめて花澄を見つめ返した。
この空気が自身のことについてのものだと、猫は知るまい。

不意に、猫がそろそろと立ち上がった。
花澄と雷牙は驚いて手を差し伸べかけた。
猫は、今度は倒れなかった。
少々のふらつきはあるものの間違いなく歩いて、正座した花澄のひざの上に両方の前足を乗せた。
花澄は戸惑いながら、猫を抱きかかえて全身をひざの上に持ってきた。
猫は四本の足でしっかりと花澄のひざに立ち、また花澄を見つめた。
黄金の瞳は鏡のように花澄の顔を映していた。
猫はひとしきり花澄の顔を眺めると、もぞもぞと丸まって、それから安心したように目を閉じた。

花澄の目から突然涙がこぼれだした。
涙のしずくが眼鏡のレンズに当たって弾け、視界を曇らせた。

「花澄」

雷牙は驚いて、花澄の肩を抱きかかえた。

「ごめん、花澄」

花澄は首を大きく横に振った。
ポニーテールが揺すられて、雷牙の顔を叩いた。
花澄は眼鏡を外して目からあふれる涙を拭いて、涙声のまま喋った。

「今ね。この子が目を閉じたときね。
力が抜けたの。
足とかね、ひざに乗せたときは力入ってて、警戒してる感じだったのに、
それがすうって抜けてったの。
点になってたこの子の重さが全体にどろんてなって、そしたら」

花澄は鼻をすすった。
雷牙はティッシュを渡して、優しく花澄の上半身を抱いて言った。

「この子が自分のこと認めてくれたって思ったんだね」

花澄はうなずいて鼻をかんだ。

雷牙は花澄の肩越しに、猫の方に目をやった。
猫は花澄のひざの上で、心地よさそうにくつろいでいた。
猫に表情はないが、雷牙にはそれが笑っているように見えた。

しばらく、誰も動かなかった。

花澄は涙を拭いて眼鏡を掛け直し、それから深呼吸して気を落ち着けた。
そうして、未だ自分の肩を抱きかかえる雷牙を確認した。
花澄は雷牙の額を手の甲で小突いた。

「いつまで抱いてんの」

雷牙が痛がってはがれたのを確認すると、花澄は猫に優しく手を置いてなでた。
猫はぴくりと耳を立て、それから目を開けて花澄を見つめた。
警戒も疑念も、その瞳には見当たらない。
親愛と甘え、それだけがその澄んだ瞳から感じられた。
花澄がなで続けると、その目もとろんと閉じて耳もしぼませ、また花澄のひざにとろけた。
花澄は両手を後ろについて、観念したように笑ってため息をついた。

「もう、駄目。あたしの負けだよ」

花澄は猫に向かって話し掛けた。

「降参降参。あんたは賢いね。
いいよ、飼ってあげるよ、あたしが責任持って」

横で雷牙が、満面の笑みで八重歯を突き出した。

「ありがとう花澄、飼ってくれるんだね」
「あんたは黙ってな」

雷牙の顔面に裏拳が入った。
花澄は引き続き猫に喋った。

「それで飼うとなると名前が必要だよね。
今いいの思いついたんだけどさ、リードってどうかな。
アール・イー・イー・ディー」
指で空中につづりをなぞりながら続けた。
「でリード。
日本語に直すと『葦』って意味になるんだけどね。
かの有名なコペルニクスの言葉から取ったんだけど」
「パスカルでしょ、『考える葦』は」

雷牙の顔面にグーがめり込んだ。
痛がる雷牙に花澄はさらりと物を頼んだ。

「雷牙、紙とペン取って」

雷牙はぶーたれつつも、二発目が怖いのでしぶしぶテーブルの上から紙とペンを取ってよこした。
花澄はその紙に三文字の漢字を書き並べた。「理依渡」。
花澄は満足そうに笑みを浮かべた。

「オッケー上出来、こう書いてリードと読むの。
ほら、あんたの名前は理依渡よ。
どう、気に入った」

花澄は猫に紙を見せた。
猫は目を開けて紙に書かれた文字を見つめた。
しばらく沈黙の後、にゃあと鳴き声を上げて尻尾を立てた。
花澄は満面の笑みを見せた。
猫の理依渡が、花澄の部屋の居候に加わった。









第4話

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