始まりの朝。
目覚まし時計を叩こうとした手が、彼の柔らかな毛に触れた。
朝起きて最初に見るものが、目覚まし時計でなく理依渡になった。
花澄の朝は、ちょっとだけ目覚めがよくなった。


   *


「おはよ、理依渡」

寝ぼけまなこのかすれた声で、花澄は理依渡に挨拶した。
理依渡は目覚まし時計の横に座り、布団の中の花澄に黄金の目を向けていた。
理依渡はにゃあと返事をして尻尾を立てた。
花澄は理依渡に微笑みかけて、もぞもぞと布団から抜け出した。

今日は土曜日、出掛ける必要はない。
休日でも平日と同じ時間に起きるのが、花澄のクセだ。
顔を洗うまで眼鏡を掛けないのもクセであるが、今日は起きてすぐ眼鏡を掛けた。
理依渡の顔が、さっきよりはっきり見えた。
理依渡は、やはり花澄を見ている。

止まっていた目覚まし時計が、その機能により再び鳴り出した。
隣にいた理依渡はびっくりして胴体だけ飛びのき、目覚ましに向かって目を見開いた。
花澄は素早く目覚ましを止めた。
理依渡は見開いた目のまま花澄の方に顔を向けた。
思わず花澄の顔に笑みがこぼれた。

「どうしたのよ理依渡、怖かったの」

花澄は理依渡を抱きかかえた。
花澄の腕の中で、理依渡は首を縮めて上目遣いに花澄の顔を見た。
怯えて甘えるその仕草が、かわいい。

「駄目よ理依渡、あたし上目遣いには弱いんだから」

花澄は苦笑して理依渡の鼻先を指でつついた。
理依渡は一瞬目を細め、それから前足をぎこちなく伸ばしてその指をつかんだ。
引かれるままに花澄が指を彼の口元へ近づけると、理依渡は口にくわえてちろちろと先端をなめた。

「ちょ、理依渡」
花澄は思わず身もだえて、声を上げて笑った。
「きゃははっ、駄目だったら理依渡。
それ本当に弱いんだから、いやーっ」

花澄は勢い余って理依渡を抱えたまま布団の上に倒れ込んだ。
笑い終わりによくある、はーっはーっと声を伴う深呼吸をする花澄を、
理依渡はなめるのをやめて見つめた。

花澄も笑いが収まると、理依渡を見つめ返した。
そしてにこりと微笑んだ。

「朝ご飯にしよっか」

理依渡はにゃあと鳴き声を上げた。
花澄はもう一度微笑んで、理依渡を抱えたまま台所に向かった。

昨日の夜の段階で、理依渡を飼う支度はすでに整っている。
エサやらトイレ用の砂やら飼い方マニュアルやら、雷牙がすべて持ってきた。
安物のコピー用紙に印刷されたマニュアルの表紙には
「ジョナサン流猫の飼い方パーフェクトガイド」と書かれている。

「誰よ、ジョナサンって」
「大学の友達。獣医学科所属なんだ。
ボクとはサークル仲間でね、『つながりまゆげ研究会』の」
「どんなサークルよ」

以上はこのタイトルを最初に見たときの花澄と雷牙のやり取りである。

花澄は理依渡を台所の入り口に座らせた。
それから流し台の下に出しっぱなしになっているキャットフードの袋を拾い上げて、
エサ皿の上に一食分を注ぎ入れた。
その皿を理依渡の前に持っていってやると、理依渡は一度花澄の顔を見てから口をつけた。
そうしてから、また花澄の方へ顔を向けた。
花澄はこの意図を知っていた。

「分かったわよ、理依渡。
あたしも食べればいいんでしょ」

花澄は食パンを一枚取り出して、トースターにぶち込んだ。
トースターの音が鳴るのを聞いて、理依渡はまたエサに、少しだけ口をつけた。

昨日もそうだったが、理依渡は決して自分だけでエサを食べようとしなかった。
雷牙がエサを差し出しても、理依渡は一口だけ食べるとまた顔を上げて二人を見た。
別のエサに替えても、また花澄が差し出しても、理依渡は二口目を食べようとしなかった。
見かねた雷牙がふと思いついてチョコレートをかじってみると、
理依渡はようやく顔を下げて二口目を食べたのだった。

トーストが焼き上がった。
花澄は新品のバターを塗ってかじった。
さくりと香ばしい音が理依渡の耳に届いて、理依渡も本格的に食べ始めた。
花澄は理依渡の隣に座って、トーストを食べ進めた。
そうして理依渡に視線をやって、あきれたようにため息をついた。

「まったく、犬じゃないんだからさ。
あんたは猫なんだからさ、そんなに飼い主思いにならなくていいのよ」

理依渡は花澄を見上げて、首をかしげた。
それからまた首を下ろして、キャットフードをかじった。

花澄はトーストをかじりつつ、そばに落ちていた飼い方マニュアルを拾い上げて中を見た。
食事やトイレのしつけなど、猫を飼うために必要な知識が書いてある。
そのうちの「さかり」についての項目に「障害のためさかりや生殖行動は起こらない」と、
恐らくはジョナサンの手書きでつけ加えられていた。

花澄は視線を理依渡に返した。
トーストをかじる音が聞こえなくなって、理依渡も食べるのをやめて花澄に顔を向けた。
花澄の手にはトーストの四半分が残り、理依渡の皿のキャットフードも四分の一に減っている。

花澄はマニュアルを、フリスビーのような手つきで軽く放り投げた。
理依渡の視線がそれを追った。
ホッチキスで束ねられたマニュアルは向かいの棚に当たり、
ばさりと音を立ててタコのように広がって落ちた。
花澄はそれを見つめたまま、理依渡に問いかけた。

「あんたってさ、生きてて楽しいの」

理依渡は花澄の方を向いて、澄んだ黄金の目で彼女の顔をのぞき込んだ。
花澄は視線を動かさず、残ったトーストを一気に噛み砕いてほおばった。
その様子を見て、理依渡は一度首をかしげると自分も残ったエサを平らげた。

目覚まし時計の長針が、もうすぐベルを鳴らしたときの位置へ戻ろうとしていた。
朝食の後片付けを終えた花澄の耳に、携帯の着信音が響いた。
雷牙だ。









第5話

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