花澄は東京の私立大学と地元の公立大学を受験して、現在私立大学に通っている。
友人に「雷牙が東京に決めたからだろう」と冷やかされて「勉強をサボったから」と否定したが、
本当にサボってゲームにハマっていたのは秘密である。


   *


「自分が情けなくて腹が立ってくるわよ」

布団の中で、花澄は雷牙へ電話越しに吐き捨てた。

今は日曜の朝。
普段ならもう起きている時間だが、花澄は布団から出る気配がない。
起きられないのだ。

「うん、情けないね。
ボクもまさか本当に食べるなんて思わなかったよ」

雷牙がさらりと言って、花澄は姿も見えない雷牙に向かってものすごいにらみを利かせた。
昨日雷牙が郵便受けに入れた二ヶ月前の生八つ橋、それを花澄は食べたのだ。

「食べようかどうか丸一日悩んだわよ」
「まさに情けないね」

花澄はまた見えない雷牙ににらみを利かせた。
二ヶ月前の生八つ橋を収納した花澄の胃袋は、今まさしく悲鳴を上げている。
普通の食べ物なら食べずに捨てていたところだろうが、今回はそうもいかなかった。
花澄が目の色を変える大好物、そのひとつが生八つ橋なのだ。
ズボンのすそに食いついて制止する理依渡も振り切って、花澄はひと箱丸々平らげてしまった。

電話口から、心配しているのかいないのか判断のつかない雷牙の声が聞こえた。

「病院には行ったの」
「行けるような元気ないし、そもそも医者にどう説明するのよ」

いい歳した女性が二ヶ月前のなまものを食べた、とは言えまい。
花澄ははなはだ不本意だという雰囲気を存分にかもし出しながら、雷牙に懇願した。

「ねえ雷牙、お願いだからこっち来て看病してよ。
理依渡の世話もしなきゃならないし」
「あー、悪いんだけどね」

雷牙は申しわけなさそうに返答した。

「今日、ジョナサンと映画見に行く約束してるんだよね。
ほら、先週から上映してる『劇場版・青輪国物語 美智姫奇譚』。
タダ券が手に入ったからさ」

花澄は絶句した。
その空気を察してか、雷牙はさっさと通話を切った。
もうつながっていない携帯に向かって、花澄は叫んだ。

「それ、あたしが見たいって言った映画じゃないのーっ」

叫んでから、腹に響いて布団の中で丸まった。
返事はない。
ただ、むなしい沈黙が後に残った。
花澄は携帯をたたんで、首を反らして布団の外へ顔を向けた。
目覚まし時計の横で、ずっと理依渡が花澄を見つめて座っていた。
その顔には、心配の色がはっきりと浮かんでいた。

花澄はゆるゆると体を起こして布団から抜け出した。
理依渡がひょこひょこと花澄に近寄って布団のふちに足を掛けて、心配げな瞳を下から送った。
花澄は腹に響かないように座って、大丈夫と言うように理依渡を優しくなでた。
理依渡は気持ちよさそうに目を閉じてみせたが、開ければやはり心配そうな表情をした。

「ごめん、ちょっと」

花澄は理依渡を放して立ち上がった。
それから腹を押さえつつ、トイレに向かった。
おぼつかない足取りで追いかけようとする理依渡に、花澄は大丈夫とつぶやいて、
それからトイレの扉に消えた。

出てくるまで、ずいぶん時間がかかった。
ようやく流す音が聞こえて、出てきた花澄の額には冷や汗が噴き出ていた。
理依渡は扉の前にいた。
黄金の瞳で、花澄の顔を見つめ上げた。
眼鏡をかけていない花澄の視界はぼやけているが、花澄はちょっとだけ微笑んでみせて、
布団に戻った。

午後からのバイトは、運良く代わりに入ってくれる人がいた。
花澄だけならば、今日一日ずっと寝ていても問題はなかった。
だが、ここには理依渡がいる。

理依渡は時計の横の定位置に戻ってきた。
布団の中から、花澄は理依渡に尋ねた。

「あんた、お腹すかないの」

理依渡はただ花澄を見つめて、返事はなかった。
花澄は丸まった。
しばらく沈黙して、それからまた理依渡に顔を向けて言った。

「食べたかったら、一人で食べていいんだからね」

理依渡からの返事はない。
花澄は目を閉じて布団をかぶって、じっと動かなかった。

数分経って、我慢の限界というように勢いよく布団を飛ばして立ち上がって、
腹に響いて縮まった。
心配げに動いた理依渡に視線をやらず、花澄は眼鏡をかけて台所に移動した。
キャットフードの袋を拾って、理依渡のエサ皿に注ぎ入れた。

理依渡が花澄を追って台所に入ってきた。
花澄は投げるように理依渡の前にエサ皿を置いた。
理依渡は花澄を見上げた。
花澄は冷蔵庫からお茶を取り出し、茶碗に冷や飯をよそった。
ダイニングテーブルについた花澄は、いまだ痛む腹を押さえた。
食べられる状態ではない。
それでも花澄はご飯にお茶をかけて、一気にかき込もうとした。
そうすると、理依渡が制止した。
理依渡はパジャマのすそに食らいつきながら、花澄に黄金の視線を送った。
花澄は茶碗を置いた。
それから理依渡にむすっとした表情を送って言った。

「あたしだって、食べたかないわよ、こんな状態で」

花澄は椅子から降りて理依渡の前にしゃがんだ。
そして両手を理依渡の首回りに当てて、揉むようになでた。
理依渡の目は細まっても、黄金の視線は花澄に向いたままだった。
花澄はさとすように喋りかけた。

「でもね、あんたは違うでしょ。
あたしがご飯食べられないからって、あんたまで断食する必要ないのよ。
だからね、お願いだからあんただけでも食べて」

理依渡は、しかし返事をしなかった。

花澄の腹がぐるぐると痛んで、花澄はトイレに走った。
済ませて出てくると、理依渡はまた扉の前にいた。
花澄はもたれかかって扉を閉めて、細くため息をついた。
それから布団に戻って眼鏡をはずして潜り込んだ。
理依渡は後から戻ってきて、定位置でぺしゃんこに座った。
そのままどちらも動かずにいて、花澄はまどろんだ。









第7話

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