高校三年生となった花澄は、校舎のすぐそばを歩いていた。
よく晴れた、さして何もない日だった。
突然花澄のいる位置に、影ができた。
花澄は上を見上げた。
男子生徒が落ちてきていた。
花澄の目に、彼の八重歯がやけに鮮明に映った。
*
五月晴れという形容がぴったりくる天気だった。
白いレンガ調をした動物病院の入り口を背にして、花澄はたたずんでいた。
心ここにあらずだった。
目の前にやってきた男のことを、気づきさえしなかった。
男は口を開いた。
「花澄」
男に呼びかけられて、花澄はようやく気がついた。
雷牙だった。
花澄の反応を見て、雷牙は続けた。
「ジョナサンから話は伝わってるよ。
理依渡、ひと晩入院させるんだってね」
花澄は、ゆっくりとうなずいた。
前日の夜、花澄が眠ったのを見た理依渡は布団を引っ張り出した。
小さな理依渡の体に対して、それはあまりにも重たかった。
それに加えて足がうまく働かないために、理依渡のあごに無理な負荷がかかった。
結果として食いしばった歯は傷ついて、大量に出血する結果となってしまった。
花澄と雷牙は小さな通りを歩いていった。
ジョナサンの叔父が経営するという動物病院から、花澄のアパートまでは歩いて十五分の距離だった。
花澄は黙りこくっていた。
雷牙は見かねて、声をかけた。
「花澄」
花澄からの返事はなかった。
雷牙は続けた。
「あんまり、気にするなよ。
そんな、花澄が悪いってわけじゃないんだからさ」
花澄は立ち止まった。
一歩前に出た雷牙は、花澄の顔をのぞき込んだ。
ややあって、花澄は言った。
「ご飯、食べさせなきゃ」
「えっ」
花澄は向きを変えて歩き出した。
雷牙は花澄の腕をつかんだ。
花澄は振り返らずに言った。
「まだ朝ご飯食べさせてないの。
行かなきゃ、あたしが行って食べさせなきゃ」
「花澄っ」
雷牙は花澄の腕を引っ張って言った。
「理依渡は点滴だから。
ジョナサンの叔父さんがちゃんと世話してくれるから、大丈夫だよ」
花澄は雷牙を振り返らなかった。
花澄の腕は、雷牙の手の中でかすかに震えていた。
花澄は続けた。
「一人じゃ食べないから、理依渡は。
点滴だって食べない、きっと抜いちゃう、から。
行かなきゃ。
あたしが行かないと」
雷牙は花澄の肩を抱き押さえて言った。
「花澄、大丈夫だから」
「大丈夫って何がよっ」
花澄の右腕が強くしなって、雷牙の胸を叩いた。
花澄は振り返った。
それから、ぼろぼろと涙をこぼした。
「雷牙、あたしどうすればいいのよ。
あたしのせいなのよ、あの子があんなにケガしたのは。
理依渡、口ん中あんなに血だらけにして。
それがあたしにばれないように、あの子全部吐き出さずに夜通しすすってたのよ。
バカよ、あたしもあの子も」
花澄は鼻をすすって、指で涙を拭いた。
雷牙はその様子を見つめた。
それからひとつため息をついて、言った。
「ずるいよ。
二人がバカなら、ボクも仲間に入れて欲しい」
花澄は一瞬、面食らったように停止した。
鼻水が、つつつと流れた。
それから次の瞬間、花澄は下を向いて怒鳴った。
「あんたは最初っからバカよっ」
その勢いで、一気に涙があふれた。
花澄はそれを必死に指で拭きながら言った。
「ハンカチ貸してよ」
「ごめん、忘れた」
「なんでよバカあっ」
花澄は両手で涙を拭いた。
それから、鼻をぐじゅぐじゅいわせながら言った。
「どうしてくれんのよ。
涙、あんたのせいで止まらないじゃない」
雷牙は苦笑した。
それからポケットをまさぐって、そこにあったものを引っ張り出しながら言った。
「なぜかファミレスの紙ナプキンならあるけど」
花澄は雷牙をにらみつけた。
それから紙ナプキンを乱暴にひったくって、それで鼻をかんだ。
紙ナプキンは、あっという間にしわくちゃになった。
雷牙は鼻でため息をついて、それから言った。
「そろそろ帰ろう。
こんな往来のど真ん中で騒いでちゃ、はたから見たら別れ話みたいだよ」
花澄は丸まった紙ナプキンで涙を拭いて、雷牙をにらみ上げた。
それから視線を下に外すと、肩に力を込めてき然と言い放った。
「あたしは絶対に雷牙と別れないから」
雷牙は苦笑して、そりゃどうもと言った。
それから二人は歩き出した。
アパートに着くまで、二人はどちらも喋らなかった。
花澄は泣き止んでいた。
真昼の太陽は一瞬薄雲をまとって、すぐまた顔を出した。
「ハイツ22世紀」の入り口で、花澄は一歩踏み込んで振り返った。
雷牙は入り口に立ち止まって、にこりと八重歯を見せた。
「それじゃあ、何かあったら電話ちょうだいね」
「あ、雷牙」
花澄に呼び止められて、雷牙は帰ろうとした足を止めた。
花澄は雷牙を見上げた。
それからいったん目を落として、しばらく口をつぐんでからまた見上げて言った。
「ありがとね」
雷牙は一度花澄を見つめて、それからにっと八重歯を見せた。
花澄は斜め下に視線を外した。
雷牙は鼻から笑い声ともため息ともつかない音を出して、花澄に背中を向けながら言った。
「大学にはちゃんと行くんだよ」
それから雷牙は去っていった。
花澄が一人残された。
花澄はひとつため息をついて、自分の部屋に戻った。
部屋に入ると、今朝の布団はそのままの状態で落ちていた。
花澄は戸を閉めて、布団を拾い上げた。
血の歯形は、すっかり乾いていた。
花澄はのろのろとくずおれて、布団の中に沈み込んだ。
布団の中で、花澄はひと言つぶやいた。
「バカ」
それから花澄は、ちょっとだけ涙をこぼした。
第11話
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