雷牙はある日、空を飛んだ。
それは意図したことではなかった。
そして雷牙は、天使を見つけた。
雷牙の天使は、ポニーテールで眼鏡をかけていた。
そしていささか暴力的だった。
*
ゴールデンウィークに突入した。
花澄は戸を開けて、表に出た。
空は晴れ渡っていた。
京都行きの予定は、ごたごたの影響で流れてしまった。
それももう、花澄にはどうでもいいことだった。
花澄は空のキャリーバッグを持って、動物病院へ向けて歩き出した。
祝日午前の小さな通りは、普段の通りに比べて人通りが少なかった。
車の音だけが前に後ろに響いて、学生服も見当たらなかった。
通りの途中で、花澄は後ろから声をかけられた。
「花澄」
花澄は振り返った。
なんの変哲もない、雷牙だった。
雷牙はにこりと八重歯を見せて、おはようと言った。
花澄もおはようと返した。
それから雷牙は続けた。
「理依渡、退院だね」
「うん。
半日様子見しただけだけど」
花澄はそれから前を向いて、また歩き出した。
歩き出すときに、花澄は小さくつぶやいた。
「ありがと」
雷牙はにっこりと八重歯を出して、それから花澄の横に並んだ。
動物病院の、白いレンガ調の建物が左手に見えた。
花澄の足どりは、自然と早くなった。
動物病院の入り口にさしかかったとき、雷牙は入り口の横に少女がいるのを見つけた。
インラインスケートを足にはめた、小学生か中学生くらいの少女だった。
髪はおかっぱで、足の間にリュックが置いてあった。
少女は壁にもたれかかってガムを噛みながら、ちらりと二人に目をやった。
花澄はそれに意識も行かずに中へ入った。
雷牙はそれを追いながら、少女にちらりと視線をやり返した。
そのとき少女が、口を開いた。
「ねえ」
雷牙は立ち止まった。
建物の中に踏み込んでいた花澄は、それに気づいて振り返った。
雷牙がそちらに視線を送ると、少女は視線を外しながら雷牙に言った。
「いいよ、お姉さんには猫を迎えに行かせてよ。
まずはお兄さんと話がしたいし、それにあたしが本当に用があるのは」
少女は一拍置いた。
それから次の言葉を、含んだ笑顔とともに雷牙に向けた。
「あの子、だからね」
雷牙は少女の顔を見た。
少女はガムをふくらませて、にっこりと微笑んだ。
雷牙はしばらく少女を見つめて、それから花澄に顔を向けて笑って言った。
「ごめん花澄、悪いけど一人で理依渡を迎えに行ってくれないかな。
この子、ボクに用事があるみたいなんだ」
花澄は雷牙を見つめた。
それから花澄の位置からは半分死角に入っている少女をいぶかしげに見つめた。
それでも雷牙の笑顔に押されて、花澄は建物の奥へ入っていった。
雷牙は少女に視線を戻して言った。
「それで。
君はボクにどんな話があるのかな」
雷牙の顔は、笑顔を消していた。
少女はガムを口の中に戻した。
それから笑顔を崩さずに、壁から離れて雷牙に正面を向けた。
向きを変えるときに、足の間にあったリュックが引っかかって倒れた。
少女は雷牙を見上げて、それから言った。
「あの子のこと」
「理依渡か」
少女はそれを聞いて、あごに握りこぶしを当ててにんまりと笑った。
「理依渡っていうんだ。
へえ、いい感じの名前もらったじゃん」
少女はそれから、雷牙の顔をうかがった。
雷牙は警戒していた。
少女はガムを吐き捨てた。
それから左手を腰に、右手を胸に当てて言った。
「自己紹介がまだだったね。
あたしは岩崎彩乃、小学六年生。
彩乃って呼び捨てにしてくれてもいいし、でも彩乃ちゃんって呼んでくれるのが一番いいかな」
そこまで言うと彩乃は、両手を後ろに組んで雷牙を見上げながら尋ねた。
「お兄さんの名前は」
「黒井雷牙」
雷牙は淡々と答えた。
彩乃はあごに手を当てて、聞こえる声で独り言を言った。
「雷牙お兄さんね。
黒井雷牙、黒井。
黒井彩乃とか、どうだろ、悪くないかも」
彩乃はにんまりと笑った。
それから両手を組み直して、雷牙を見上げながら切り出した。
「自己紹介も済んだことだし、さっそく本題に入らせてもらうよ。
あの子ね、雷牙お兄さんたちが言う理依渡だけど」
彩乃は体をくの字にして、雷牙の顔色をうかがった。
雷牙の表情に、変化はなかった。
彩乃はにんまり笑って、次の言葉を吐き出した。
「あたし、あの子の元飼い主なんだよね」
彩乃はまた、雷牙の顔色をうかがった。
雷牙の表情に、やっぱり変化はなかった。
彩乃は首をかしげて言った。
「あんまり驚いてないんだね」
「まあ、なんとなくそういう感じはしてたからね」
雷牙の目がちらりと病院の中へ向かった。
花澄が出てくる様子は、まだなかった。
彩乃はにんまりと笑って尋ねた。
「ね、理依渡って今どんな感じなの」
雷牙の意識が鋭くひるがえって、返答を突き返した。
「答える義務があるのかな」
彩乃はむすっと口をとがらせて言った。
「あたしはあの子の元飼い主だよ」
「捨てたんだろ」
雷牙の声がとがった。
彩乃は雷牙をにらんで言った。
「別にいいじゃん。
捨てようがどうしようが、あれはあたしのなんだからさ」
「今は花澄の猫だ。
理依渡をどうにかしたいなら、花澄を通してからにしな」
「そうするよ」
彩乃の体が動いて、雷牙の横をすり抜けようとした。
そうなる前に、雷牙が動いて立ちはだかった。
「待ちなよ。
理依渡をどうにかするなら花澄を通してからだけど、花澄に会うにはまずボクを説得しなよ」
彩乃は雷牙の顔を見上げた。
その表情を確認して、彩乃はひとつため息をついた。
それから壁に寄りかかって、手をぶらぶらさせながら言った。
「あーあ、仕方ないか。
面倒だけど、お兄さんに頭を下げてもらわなきゃいけないみたいだね」
彩乃は足元のリュックに手を伸ばした。
リュックをいじりながら、彩乃は独り言のように喋った。
「お姉さん、今ごろ理依渡に会ってるかな」
雷牙の指先に、警戒の色が濃くなるのが見えた。
彩乃はリュックの中に両手を突っ込んで続けた。
「理依渡に会う。
お医者さんの話を聞く。
心配はいらないけど定期的に来てください、とかかな。
獣医さんと話をしたことがないから分かんないけど」
彩乃の手はリュックをあさり続けた。
彩乃の話はまだ続いた。
「話は全部終わる。
そこでお姉さんは迷う。
すぐに出ていいのか。
理依渡を連れてあの子の前に現れていいのか。
お姉さんは迷う、でも来る。
お姉さんはお兄さんに理依渡を早く見せたいと思う。
何よりお姉さんはお兄さんを信頼してる。
何があっても、お兄さんが守ってくれると信じている」
彩乃の両手が、リュックの中から顔をのぞかせた。
彩乃はにやりと笑って言った。
「そしてお兄さんは守れない」
その両手に握られたスプレー缶を、雷牙は確認した。
そしてそのタイミングで、花澄が出てきた。
「来るな花澄っ」
雷牙が叫ぶより早く、彩乃の体は動いていた。
彩乃の催涙スプレーが噴射されて、雷牙は顔を押さえて縮まった。
花澄はとっさの判断に迷った。
そしてその顔面に、催涙スプレーは火を噴いた。
花澄は縮まってひるんだ。
その隙に彩乃は、右手のキャリーバッグをひったくった。
彩乃は中をちらりとのぞいた。
揺すられてひっくり返った理依渡が、彩乃に黄金の視線を向けていた。
第12話
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