太陽が昇るより早く、少女は家を出た。
その手には段ボール箱が抱えられていた。
インラインスケートが、彼女の体を運んだ。
そこは大学の校門の前だった。
少女は段ボール箱を置いた。
それから何か言おうとして、何も言わないまま元来た道をたどっていった。

顔を出した太陽の光は、少女まで届かなかった。


   *


動物病院の手術室は、ランプを点灯させたまま固く閉ざされていた。
花澄はその前に座っていた。
ひざの上に、両手のこぶしを押しつけていた。
ただ、静かだった。



待合室に射し込む光が、だいだい色に近づいてきた。
自動ドアは不意に開いた。
中にいたジョナサンは、入ってきた雷牙を迎えた。
額に包帯を当てた雷牙は軽く微笑んで、それから尋ねた。

「様子はどう」

ジョナサンはサングラスをかけてから答えた。

「分からんな。
助かるか助からんか、五分五分らしい。
おまえの彼女は手術室の前にいるが、まあ、あいつもこいつも、オレじゃ会話にならんよ」

ジョナサンはあごで指し示した。
待合室のソファに、彩乃がうつむいて座っていた。
雷牙は彩乃の正面に移動した。
彩乃の指に巻かれたバンソーコーを見つめて、それから雷牙は尋ねた。

「理依渡が心配かな」

彩乃は顔を上げた。
その目は、雷牙をにらんだ。
それから立ち上がって、視線を外しながら突っぱねた。

「別に、心配なんかしない。
ただ引っ張られてきたから、ここにいるだけ」

彩乃はそれから立ち去ろうとした。
雷牙は腕で制止した。
彩乃は視線を落としたまま言った。

「どうでもいい、関係ないよ、もう」
「理依渡はそうは思ってない」

彩乃は雷牙の手をはたき落とした。
肌を打つ音が、待合室に響いた。
彩乃は雷牙をにらみ上げて怒鳴った。

「あんたに何が分かるってんだよ」

彩乃の目に、涙が浮かんだ。
彩乃は構わずに怒鳴り散らした。

「あいつは、あいつはあたしの唯一の味方だと思ってた。
そう信じてたのに、あいつは、あいつにとっては、あたしも他のやつらも同じ扱いなんだ。
それどころか、あいつはあたしにだけ牙を立てた。
あたしにだけだっ。
なんでさ、他の誰にも、一度だって牙を向けたりしなかったのに」

彩乃の目から、涙がこぼれた。
雷牙はハンカチを差し出しながら言った。

「ちょっと落ち着きなよ。
気持ちは分かるけどさ」
「ざけんなっ」

彩乃の手がハンカチを払い落とした。
彩乃はその勢いで雷牙の胸を叩いて、それからわめいた。

「偽善者ぶるんじゃねえよ。
あたしの気持ちなんか、てめえなんかに分かってたまるか。
死んじまえ。
てめえもあいつも、あたしの敵だ。
もうどうなっても構わないんだよ。
あたしのことなんてどうでもいいって思ってるあいつなんか、死んじまえばいいんだよっ」

その瞬間、雷牙の右の平手が飛んだ。
ほおを打つ音が響いて、彩乃はソファへ倒れ込んだ。
彩乃とジョナサンの視線が、雷牙へと飛んだ。
雷牙は右手を左手でつかんで、感情を押し込めるように微笑んでいた。
そのゆがんだ口から、震えた声が出てきた。

「ごめん、つい手が出ちゃった」

ジョナサンが歩み寄って雷牙の顔をうかがった。
雷牙はそれを見やって、大丈夫だと笑ってみせた。
それから呼吸を落ち着けて、両手を下げてから喋った。

「さっきね、診療所からここに来る途中、あそこに寄ったんだ。
君を追いつめた、理依渡がひかれた場所」

雷牙は彩乃を見下ろした。
彩乃はびくりと震えた。
雷牙はぎこちなく微笑んで、それから続けた。

「引っかかってたんだ。
何か違和感があってね、試してみたんだ。
あのガードレール。
こうやって、手を置いてさ、押してみたら」

雷牙は手まねで、ガードレールを押すしぐさをした。
そしてその手の力が不意にゆるむと、雷牙は続きを言った。

「落ちたよ、あのガードレール」

彩乃の口から、えっというつぶやきが漏れた。
雷牙は自分の手のひらを見つめながら続けた。

「いたずらなのか老朽化なのかは分からないけど、ボルトが傷んでたんだ。
ちょっと力を込めたら、案外簡単に落ちたよ。
あれなら多分、子供が体重をかけただけで落ちてたね」

彩乃の眼球が、複雑に揺れ動いた。
あのとき彩乃は、確かにガードレールに体重をかけた。
ガードレールがきしむ音も聞いた。
そしてそれを止めたのは、理依渡が噛みついたからであった。

雷牙の視線が彩乃へと向かった。
そして精一杯の優しい口調で言い放った。

「痛かったろうね。
君も理依渡も」

彩乃は震え上がった。
それから手で口を押さえた。
その目はまっすぐに雷牙へ見開かれたまま、涙が流れるのをとどめえなかった。
流れるままに、彩乃の口から言葉がかすれた。

「そんな、だってあの子、ケガして。
それで、あ、あたしを助けたっていうの。
そんな、そんなの、そんなのって、あたしは。
そんなっ」

涙の量が一気に増えた。
口を押さえていた彩乃の手が、そのまま顔全体を押さえつけた。
その体はソファを滑り落ちて、寄りかかった状態で床にへたり込んだ。
雷牙はその様子を見つめて、小さく息を落ち着けた。
それから、床に落ちたハンカチを拾い上げた。
そのほこりを丁寧に払ってから、彩乃に差し出して呼びかけた。

「使いなよ」

彩乃は息を詰まらせながら、指の間の視線をそろそろと雷牙へ向けた。
雷牙はその目を見つめて、優しく微笑んだ。
彩乃は鼻をすすりながら、ハンカチをつかんだ。
彩乃は口を強くつぐんだ。
涙はじりじりとあふれ出してきた。
彩乃はその涙に、ハンカチを強く押しつけた。
雷牙は視線を彩乃の手元に置きながら、おだやかに喋った。

「事情が完全に理解できたわけじゃないけど、この件に関しては君が全部悪いとは思わないよ。
理依渡もちょっと頑固すぎたんだ。
鉛の意志だよ、リードだけにね」

雷牙はへらりと笑った。
彩乃は、聞いていなかった。
涙はすでに止まっていた。
話している途中から、彩乃の意識はまったく違うところに向いていた。
彩乃はハンカチの異変に気づいていた。
彩乃は雷牙に尋ねた。

「ねえ、これ、なんでこんなカピカピにくっついてるの」

雷牙は何か思い出したようにぎくりとした。
それからばつの悪そうな顔をして、目を泳がせながらしどろもどろに答えた。

「あー、それ、しまったな。
それ、一週間前に鼻かんで、そのままポッケに放り込んでたやつだ」

一瞬、空気が凍りついた。
彩乃の手から、ハンカチがぽとりと落ちた。
その手はぷるぷると震えていた。
そして次の瞬間、彩乃は立ち上がって後ずさりながら絶叫した。

「さ、最悪、不潔、変態っ」

雷牙はへらへらと笑った。
ジョナサンは肩をすくめて、そのままソファにどさりと腰かけた。
彩乃は語彙の限り罵倒し続けた。
雷牙はへらへらし続けた。
挙げ句の果てに、雷牙はこうのたまった。

「うんうん、やっぱり君はそうやって元気な方がかわいいね」

彩乃の声がつまづいた。
彩乃はぷるぷると震えながら、その口を声もないまま複雑に動かした。
それから顔を真っ赤にして、ひときわ大きな声で怒鳴った。

「ど変態っ」

雷牙は満足そうに、八重歯を見せた。









第15話

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