大学入学を目前に控えた雷牙は、姉夫婦の家へ引っ越した。
姉の銀河は、引っ越して早々雷牙に仕事を押しつけた。
雷牙はその日、八時間ぶっ通しの大掃除をこなすこととなった。
*
表を走る子供たちの影が、動物病院に射し込む西日を点滅させた。
ジョナサンはサングラスの位置を直しながら、ソファに座ったままそれを見やった。
雷牙は八重歯を見せてたたずんでいた。
その正面で彩乃が、顔も目も真っ赤にして息を荒げていた。
ややあって、彩乃は鼻を鳴らした。
「バカみたい」
雷牙は八重歯をちらつかせながら尋ねた。
「ちょっとは落ち着いてきたかな」
彩乃は雷牙に視線を向けた。
それから顔を外して、みけんにしわを寄せてつぶやいた。
「くやしい」
彩乃はそれから、両手の甲で涙をぬぐった。
雷牙はそれを見やった。
それから不意に真顔に戻って、口を開いた。
「本当はもうちょっと落ち着いてからの方がいいんだけどさ。
早めにはっきりさせといた方がいいと思うんだ」
雷牙の視線が、花澄の今いる方向を向いた。
視線をそちらに固定したまま、雷牙は彩乃に尋ねた。
「理依渡の所在についてだ。
このままボクらのところに置いとくか、それとも君が連れて帰るのか」
彩乃は両手を体の横に下ろした。
それから雷牙を見て言った。
「そっちに置いといて。
もう、さっきとは違う意味で、どうでもよくなった」
雷牙は視線を彩乃に戻した。
彩乃は視線をそらした。
雷牙は軽く微笑んで、それから尋ねた。
「話せる限りでいいんだけど、よければ事情を聞かせてくれないかな。
理依渡を捨てた理由と、ボクらから取り返そうとした理由」
彩乃は視線を、まっすぐに雷牙へと戻した。
それからうつむいて、右手で左のひじを抱き寄せてから喋った。
「あたしの一番嫌いな人に、あの子はあたしにやるのとおんなじ態度をした。
それが、あたしがあの子を捨てた理由。
その後ここへ駆け込むお姉さんを見つけて、お兄さんを見つけて、壊したくなった。
それが、あの子を取り返そうとした理由」
ジョナサンが鼻でため息をついた。
雷牙はそちらをうかがわずに、彩乃に問いかけた。
「君が受けた感覚を、ボクらにも味わわせようとしたわけだね」
彩乃はうつむいたまま黙りこくった。
それから頭を下げて、謝った。
「ごめんなさい」
雷牙はきょとんとした顔でそれを見つめた。
それからするすると歩み寄ると、おもむろに彩乃の頭をなでくり回した。
「ちょっ」
彩乃はびっくりして後ろに跳ね飛んだ。
彩乃が顔を上げると、雷牙はへらへらと八重歯を見せた。
彩乃はジョナサンの方を向いて、雷牙を指さして問いただした。
「こいつ、マジで変態なのっ」
ジョナサンは肩をすくめて返した。
「知るか」
雷牙はへらへらと八重歯を見せて言った。
「いやいや、あんまりスキだらけだったからさ。
ボクの周りの人たち、頭なんてなでたら殺されるような人ばっかなんだよね」
彩乃は呪いをかけるような目で雷牙をにらんだ。
それからきびすを返して、つかつかとソファの横のリュックに向かいながら怒鳴った。
「帰るっ」
「あ、待って」
リュックを拾い上げた彩乃に、雷牙は慌てて呼びかけた。
彩乃はまゆ根を寄せて振り返った。
雷牙は真顔に戻って、それから微笑んで言った。
「理依渡が治ったら連絡するからさ、連絡先教えといてよ」
彩乃はいぶかしげに雷牙の顔を見つめた。
それから視線を落として、リュックから携帯電話を取り出して放り投げた。
雷牙はそれをキャッチして八重歯を見せた。
「サンキュ」
雷牙は自分の携帯にアドレスを入力した。
そうしながら、視線を携帯に向けたままなにげなく尋ねた。
「理依渡ってさ、君のところにいたときはどんな名前だったの」
「忘れたよ」
このとき雷牙は、彩乃の表情を見ていなかった。
雷牙が顔を上げると、彩乃は首を横に振った。
それから苦笑いを作って、言った。
「もういいじゃん、前の名前なんて。
理依渡は理依渡、それでいいじゃん」
雷牙は何か言いかけて、それから何も言わずにうなずいた。
「そうだね」
アドレス入力を終えて、雷牙は携帯をたたんだ。
それからまた、彩乃に尋ねた。
「もうひとつ。
理依渡の足、あれは」
「あたしじゃない」
彩乃はきっぱりと言い切った。
「あたしが拾ったときから、理依渡はもうああだった。
理依渡の足の原因はあたしじゃないし、あたしが飼ってたときになったものでもない」
彩乃は真剣な表情で、雷牙の目を見つめた。
そして宣言した。
「誓うよ」
雷牙は彩乃の目を見つめ返した。
それから微笑んで、うなずいてから言った。
「うん、分かった。
ありがとう」
それから雷牙は、携帯を差し出した。
彩乃はそれを受け取って、リュックにしまった。
雷牙はそれを見てから尋ねた。
「ボクから聞きたいことはもうないけど、どうする。
もう帰るか、それとも理依渡の手術が終わるまで一緒にいてもいいし」
彩乃は少し考えて、それから少しさみしそうな苦笑を浮かべて答えた。
「残念だけど、帰らせてもらうよ。
お姉さんと顔を合わせたら、気まずくなりそうだもん」
雷牙はそっかと返して、それからジョナサンに呼びかけた。
「ジョナサン、送ってやりなよ」
ジョナサンは重い腰を上げながら雷牙に返した。
「今度『がーねっと』でオムライスおごれ」
「はは、好きだね」
ジョナサンはバイクの鍵を指で回しながら、出口へと歩き出した。
彩乃はそれに続こうと歩きかけた。
それからふと、雷牙の方に向き直って問いかけた。
「そういえばさ、お姉さんの名前は聞いてなかったよね。
なんて名前なの」
雷牙はきょとんという顔をした。
それからにっと八重歯を見せて、答えた。
「花澄だよ。
岡元花澄」
「ふーん、花澄」
ジョナサンはさっさと建物の外へ出て行ってしまった。
彩乃もそれを追って、出口へと向いた。
雷牙に背中を見せたまま、彩乃は言った。
「黒井花澄って覚えとくよ」
彩乃は歩き出した。
夕日の光が、まぶしく輝いた。
最終話
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