四月の最後の日曜日が、二人の最初のデート日だった。
花澄は約束の時刻に五分遅れた。
息せき切って雷牙の前に現れた花澄は、荒れた息のまま雷牙に尋ねた。
「ごめん、待たせちゃって」
雷牙はにこりと八重歯を見せて、それから答えた。
「まだ、待ち足りないよ。
今日が初めてなんだ、大切な人を待つのってさ」
*
七月の最後の朝日が、花澄の部屋に浅く踏み込んでいた。
六畳間には敷き布団が一枚だけ敷かれていた。
その上に、タオルケットを腹に巻いて雷牙がいた。
目を完全に閉じたまま、雷牙は八重歯の飛び出た口をごにょごにょと動かした。
「そのザットはー、前の文を指してるんじゃなくてー、名詞節を導いてるんだよー」
えーっというつぶやきがあった。
布団の横であぐらをかいていた花澄は、束ねていない髪をわしゃわしゃとかいた。
みけんにしわを寄せたその目は、ひざの上のテキストを凝視していた。
それからその視線を雷牙に移して、テキストを持っていきながら尋ねた。
「え、だったらさあ、この文ってどこまでが主語なのよ。
そんでどれが動詞でその後どういう構造になってるのよ」
雷牙はうっすらとまぶたを上げた。
そうして文章に目を走らせて、それからもにょもにょと喋った。
「メイクスが動詞でー、その前までが主語だねー。
文章全体は第五文型でー、目的語に現在分詞がくっついてるんだよー」
花澄はまたえーっと漏らして、テキストを自分の方に引き寄せた。
そうしてぶつぶつとつぶやきながら、文章に何度も目を往復させた。
しばらくそれを続けてから、うあーっとうめいてテキストを放り投げた。
「駄目だー、頭痛い、もう死にそうー。
こんなんで今日の試験が受かるわけないじゃないのよ」
雷牙はまどろんだままへらへらと八重歯を見せた。
「花澄、葦の英語は知ってるくせに英文法は駄目駄目なんだねー」
花澄はフンと鼻を鳴らした。
「英文法なんてクソ食らえよ。
英語なんてものはね、かっこいい単語だけ残して後は全部死滅しちゃえばいいのよ」
雷牙はゆるい苦笑をして鼻でため息をついた。
「こんなんに勉強を教えるのは大変だねー。
花澄からも家庭教師代取りたいくらいだよー」
花澄はぶーたれた顔で雷牙を見下ろした。
それから普通の顔に戻って、思い出したように尋ねた。
「そういえば、その家庭教師の生徒はどんな調子なのよ。
彩乃ちゃんの調子は」
雷牙は多少まともに目を開けた。
それから視線を上に向けて喋った。
「だいぶよくなってきたね。
あれなら中学受験には間に合いそうだよ。
まあ、もともと地力はあったみたいだからね。
五月がどん底だったんだよ、あれだけいろいろあったからさ」
そこまで言って、雷牙ははっと口をつぐんだ。
花澄の表情は曇っていた。
雷牙は身を起こして、慌てて謝った。
「ごめん」
花澄は首を振った。
それから言った。
「謝らないで。
あたしが駄目なのよ、本当はとっくに許してなきゃいけないのに。
それでもあの子があたしの大切な人たちを傷つけたのは、事実だから」
花澄は雷牙を見つめた。
それからその額に指を伸ばした。
注視すれば見える傷跡が、そこにあった。
花澄は大きくため息をついて、それから両手を後ろについて吐き出した。
「あーあ、駄目だあたし。
人間もっとおおらかに生きた方が絶対に得なのにね」
花澄は振り返った。
そして呼びかけた。
「ね、理依渡」
呼ばれてその耳が、ぴくりと動いた。
部屋の隅で丸まっていた理依渡は、そのまぶたをゆるゆると持ち上げた。
黄金の視線は、花澄をとらえた。
それだけで理依渡は、また目を閉じて眠りについた。
花澄は鼻で小さくため息をついた。
それから立ち上がってぼやいた。
「はーあ、そろそろ地獄に行く準備しなきゃ」
そう言うと花澄は、雷牙がいるのも気にせずにぱっぱと着替えた。
途中で脱いだ服をわざと雷牙に引っかけたりもした。
それからすべての支度をして、十分ののちには髪も結んでお出かけスタイルになっていた。
花澄はため息混じりに雷牙に言った。
「じゃ、行ってくるから」
雷牙はへらりと八重歯を見せて言った。
「頑張れ花澄、今日が終われば楽しい夏休みの始まりだ」
花澄は大きくため息をついてからぐちった。
「あんたは気楽でいいわね、テスト期間が一日早く終わっただけでこの差。
あーあ、あたしも早く楽になりたいー。
そのくせあんたは彩乃ちゃんにつきっきりで、なんかそのまま持ってかれちゃいそうな気がするし」
ぐちりながら、花澄は玄関口まで流れていった。
そこで左手を上げて、ゆるい敬礼のポーズを作ってけだるそうに言った。
「じゃ、行ってくる」
玄関が花澄を吐き出して、閉まった。
花澄がいなくなった玄関口を、雷牙は見つめていた。
それから不意に、ぼそりとつぶやいた。
「持ってかれそう、か」
雷牙は理依渡に顔を向けた。
理依渡は目を閉じたまま、ぴくりと耳を動かした。
雷牙は八重歯を見せて、それから言った。
「でもボクが花澄から離れることはないよ」
理依渡は目を開けた。
雷牙はカバンから何かを取り出していた。
それは携帯電話だった。
雷牙が普段使っているものとは違った。
そしてそれは、花澄が使っているものと同じ機種だった。
雷牙はにっと八重歯を突き出した。
それからその携帯をカバンに放り込むと、揚々として言った。
「さあて、ボクも行くかー」
雷牙は神速で着替えを済ませた。
それから布団を、まるでリフティングをするように軽快に片づけた。
最後にカバンをひっつかむと、理依渡にぱちりとウインクをして呼びかけた。
「それじゃね、理依渡。
今年の夏は、いっぱい思い出を作ろう」
雷牙は玄関へ向かった。
理依渡はその背中を視線で見送った。
雷牙は扉の外へ飛び出した。
その扉が閉まる直前、理依渡は小さくにゃあと返事をした。
陽光は今日も、アスファルトの上を飛び跳ねていた。
憎らしいくらいに。
<完>
番外話(前編)
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