八月の蝉時雨が、けたたましいほどに鳴り響いていた。
夏休みを利用して、花澄と雷牙は実家に帰省していた。
花澄は今日、久しぶりに会う友人たちと遊びに出かけた。
その間理依渡は、雷牙に預けられることとなった。
墓地に立ち並んだ墓石は、陽光を浴びて真っ白いほど輝いていた。
その墓石の間を、麦わら帽子をかぶった雷牙はゆっくりと歩いていった。
右手に花や水桶を持って、左手には白いキャリーバッグを提げていた。
一歩一歩歩くたびに、肩からかけた小さな保冷バッグが揺れていた。
ひとつの墓石の前で、雷牙は立ち止まった。
キャリーバッグの中から、理依渡は墓石に視線を投げた。
雷牙は荷物を下ろすと、キャリーバッグをのぞき込んでにっこりと理依渡に呼びかけた。
「ごめんね、変なとこに付き合わせちゃって。
今濡れタオルを出すからね」
雷牙は保冷バッグから濡れタオルと水を取り出して、キャリーバッグの中に入れてやった。
理依渡は鼻先で濡れタオルに触れて、それから雷牙に黄金の視線を向けた。
雷牙は八重歯を見せて答えた。
「大丈夫だよ、ボクの分もあるから」
雷牙はそう言って、保冷バッグから自分の分の濡れタオルと水を出した。
濡れタオルで顔や首をふいて、それから水を飲んだ。
理依渡はそれを確認して、ゆるゆると濡れタオルに顔をうずめた。
雷牙は桶の水で、墓石を軽く洗った。
それから花を立てて、線香に火をつけて、それから供え物を置いた。
供え物は、タバコだった。
最後に雷牙は、頭を伏せて合掌した。
一連の動作を、理依渡はじっと見ていた。
雷牙は振り返った。
自分に向けられたその視線を見て、雷牙はにっこりと微笑んで尋ねた。
「ここにいるのが誰なのか、気になるかな」
雷牙は墓石に目を向けた。
墓石に刻まれた名字は、雷牙や雷牙の親戚の名字とは違っていた。
雷牙はしばらく、口をつぐんでいた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「ここにいるのはね、理依渡。
ボクが花澄と付き合う前に、付き合っていた人なんだ」
蝉時雨が、シャワーのように降り注いでいた。
黄金の瞳はまっすぐに、雷牙の閉じられた口を見つめていた。
*
キンモクセイの香りが、風に乗ってふんわりと流れていた。
学生服を着た雷牙は、低いビルの屋上でぼんやりと外をながめていた。
公園の緑地が、深い色合いでたたずんでいた。
雷牙の両目に、後ろから手が当てられた。
「だーれだ」
雷牙は少し間をおいた。
耳を敏感に澄ませながら、雷牙は静かに答えた。
「裏地夕樹。
ボクのいとしい人」
雷牙の耳に、くちびるが触れた。
両目を解放されてから、雷牙は後ろを振り向いた。
裏地夕樹は、いつも通りに上から下まで黒い服を着ていた。
頭には黒いハンチング帽をかぶって、黒い髪は腰まで伸ばしていた。
眼鏡の赤いフレームだけが、彼女をモノクロでなくしていた。
夕樹はにっこりと雷牙に笑いかけて、それから言った。
「余命半年って言われたよ」
雷牙の瞳に、悲しみの色が浮かんだ。
手すりに背中を預けて、懇願するように雷牙は訴えた。
「さらりと言わないでよ、そんなこと」
夕樹は、ふっと笑った。
ゆるい風に髪を明け渡しながら、快活とも言える口調で答えた。
「どう言ったって、言わにゃいかんことに変わんないんよ」
それから夕樹は、タバコを取り出して火をつけた。
それを吸おうとしたとき、雷牙に手を押さえられた。
夕樹は雷牙の顔を見た。
雷牙は押し黙って、夕樹を見つめたまま首を横に振った。
夕樹はくすりと笑った。
雷牙の瞳は、黒曜石のように濡れてつやめいていた。
夕樹は雷牙のくせ毛頭をなでると、その指をはわせて雷牙のくちびるにあてがった。
それから夕樹は、眼鏡のガラス越しに雷牙を見つめて言葉をつむいだ。
「今さら、体にいいことしても悪いことしても、変わらんよ」
夕樹のくちびるに、タバコが当てられた。
吐き出された煙を、雷牙は立ちつくしたまま浴びた。
沈んだ顔は、足元を向いていた。
その顔を上げないまま、雷牙は夕樹に懇願した。
「今さらだからこそ、禁煙してくれたって、いいじゃんか。
一分でも一秒でも、ボクは夕樹と一緒にいたいのに」
夕樹は、タバコをくわえたまま雷牙の顔を見つめた。
それからタバコを指でつまむと、煙を吐き出しながらにやりと笑った。
「あたしが禁煙したら、今度は何をやめてくれるんかな。
前に禁煙したときは、雷牙はゲームを捨ててたよね。
結局禁煙は一か月ともたなかったけど、ゲームは元に戻らないまま」
それから、夕樹は少しだけつらそうな顔をした。
「君は人が苦しんでるとき、自分も苦しめなきゃ気が済まないタチだからね。
間違ってるとは言わんけど、見てて余計につらいんよ、苦しんでる側にとっちゃ」
夕樹はそこで、タバコをひと吸いした。
雷牙はただ、押し黙っていた。
夕樹は煙を吐き出した。
それから、優しい微笑みを雷牙に向けて、語った。
「あたしは、充分すぎるほど幸せだったと思うんよ。
東京で銀河ちゃんと出会って、銀河ちゃんの地元に連れられて、
銀河ちゃんの弟である君に出会って。
それから、むっつ年下の彼氏になってくれた。
両腕いっぱいにかかえ込んで、それでもおつりが来るほどのどでーっかい幸せよ」
夕樹はにっこりと笑った。
雷牙はそれでも、顔を上げなかった。
ゆるい風が、夕樹の正面から流れた。
髪をふわりと浮かせて背を向けながら、夕樹は横顔で雷牙に呼びかけた。
「そろそろ行こう。
いつまでもこんなとこにおっても、しょうがないし」
夕樹が歩きかけた。
そのとき雷牙は、夕樹を後ろから抱きしめた。
風がゆるく、吹き続けていた。
雷牙は夕樹の髪にひたいを当てながら、しぼるようにうめいた。
「いかないでよ、夕樹」
夕樹はただ、赤い眼鏡で正面を見つめていた。
雷牙は強く抱きしめた。
細い体が折れそうなほど、きついしめ方だった。
夕樹は淡い微笑みを作って、背中の雷牙に語りかけた。
「何も、悲しむことはないんよ。
あたしはただ、ちょっとだけ早く天国へいって、花見の場所取りでもするだけだから。
君はただ、遅れてやってきて、あたしの確保した最高の場所を満喫すればいいんよ」
雷牙は体を小さく震わせていた。
夕樹の黒髪に顔をうずめて、雷牙はくぐもった声を出した。
「ずるいよ。
夕樹はいつだって、ボクを待たせてはくれない。
デートのときだっていつだって、夕樹は絶対にボクより早く待ち合わせ場所にいるんだ」
濡れた感触が、夕樹のうなじに染み込んできた。
雷牙の両腕は、しめつける強さを増していた。
夕樹は雷牙の手に自分の手を重ねて、おだやかに喋った。
「離して、雷牙。
そんなに強くしめられたら、振り向いて君の顔を見ることもできんよ」
雷牙は、しばらく何も動かなかった。
それからゆっくりと、腕の力をゆるめていった。
夕樹は振り返った。
純粋な笑顔が、そこにはあった。
くしゃくしゃになった雷牙の顔を見つめて、夕樹は言った。
「向こうで会うときには、君には別のいとしい人がいて欲しい。
そう確かに願いながら、それでもなお真実だと誓えることがある。
愛してるよ、雷牙」
くちびるの距離が近づいた。
風の中に、キンモクセイの香りが流れていた。
番外話(後編)
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