Ib[アイビー]
ナチュラルキメラ‐1

藤代恭介はうたた寝から目を覚ました。
そして勉強机から横っ飛びに飛び出して、床の上に転がり落ちた。
恭介の左手はこれによって、カッターナイフを振り上げた恭介自身の右手から守られた。



秋の高い空に朝日を反射させて、月曜日が始まった。
恭介は父親と朝食を食べて、へにゃりとした黒髪から寝ぐせを取り去った。
それから身だしなみを整えて、高校へ向かった。

通学路は、イチョウ並木がささめいていた。
その金の坂道を、恭介の銀の自転車は滑走した。
道のりも後半にさしかかったところで、恭介の視界に親友のツンツン茶髪が目に入った。
恭介はそれを、無反応で追い抜いた。
その直後、恭介の後頭部にカバンが的中した。

「あああ」

恭介はマヌケな声を出して転倒した。
ハデな音が鳴って、他の通学生徒たちの視線を集めた。
恭介はよろよろと立ち上がった。
そこへ首根っこをつかまれた。
恭介とは対照的なツンツン茶髪が、恭介の後頭部をぐりぐりしながら不平をたらした。

「このスットボケ恭介がああ。
なんでいつもいつもことなかれに通り過ぎようとするんだよおおお。
それが親友に対する態度か、おまえはこの大輝様のガラスのハートが見えないのかああ」

「だ、大輝、痛い、ごめん、謝るから、いたたたた」

恭介は両手をキョンシーのように前に出してもがいた。
大輝は初撃のポイントを充分に痛めつけてから、ようやく解放して投げたカバンを拾った。
それから、視線を恭介に向けた。
恭介は大輝に背を向けて、後頭部をさすっていた。
大輝は無言で、その尻を軽く蹴飛ばしてやった。
恭介は自転車の上にすっ転んで、ハデな音を立てた。

「痛いー」

顔見知りの女子が、くすりと笑って歩いていった。
恭介と大輝のこのやりとりは、ほとんど日常茶飯事になっていた。

大輝は痛がる恭介を無理やり立たせた。

「ほら立て恭介。
この大輝様のガラスのハートを傷つけた罰として、学校まで乗せてけー」

「ふえー」

大輝は恭介の後ろにまたがった。
銀の自転車はふらつきながら、二人を乗せて学校まで走った。

二人はそれから、いつもの授業を受けた。
恭介にとって、今日は平穏な一日だった。
二回の自傷行為が、どちらも未遂に済んだからだった。



夕飯の後片づけを終えて、恭介は勉強机に向かった。
開いたノートには、自傷行為の記録が記入されていた。

恭介には自傷癖があった。
ただしそれは意識的なものではなく、すべて無意識に行われるものだった。

恭介は今日の自傷行為を子細に記した。
そうして過去の記録と照らし合わせた。
二回の行為はどちらとも、今までの記録から導かれた法則と符合していた。

恭介の自傷行為には法則性があった。
それは攻撃する部位と、攻撃される部位との関係性だった。
右手は左手を攻撃するが、左大腿には攻撃しなかった。
左大腿は左手から攻撃を受けるが、眼球を標的にするのはもっぱら右手だった。
この攻撃性・非攻撃性を元に図を描くと、恭介の体はきれいに二色に塗り分けられた。

右手の攻撃対象を青色で、左手の攻撃対象を赤色で。

そうして塗られた色は、互いにまったく重ならなかった。
ときには手以外の部位が攻撃を行う場合もあったが、それも例外なく違う色の部位を攻撃していた。
例えるなら、恭介の体はさもふたつのチームに分かれて戦っているようだった。

恭介は無言でノートをながめた。
そうしてしばらくぼーっとしていると、左手は無意識のうちにカッターナイフをつかんでいた。
右手が左手を押さえた。
カッターナイフが落下して、机上にぶつかった。
凶器を取り落とした左手は、わなわなとむなしく震えていた。



翌日、恭介は学校帰りにスーパーへ寄った。
夕飯の材料を買うためだった。
恭介はカートを押して、根菜などを見て回っていた。
そこで恭介は、男とぶつかった。

「ああっ」

カートと一緒に、恭介は転んだ。
早足で歩いていた男も、同時に転んで恭介にもたれかかった。
男は体を起こして謝った。

「すまん。
よそ見をしていた」

恭介は頭を上げて、男に視線をやった。
男は黒服に、黒い野球帽を目深にかぶっていた。
目元は見えず、帽子の下には金髪がのぞいていた。
そしてその両耳には、大きなドクロのピアスがぶら下がっていた。

恭介も謝ろうと、立ち上がるために右手をついた。
そこで痛みが走って、恭介は顔をしかめた。
恭介は右手を見た。
何かで切ったような赤い傷が、そこにあった。
男はそれを見やって、それから言った。

「転んだときに切ったみたいだな。
悪い、使ってくれ」

そう言って男は、バンソーコーを差し出した。
恭介は言われるまま、バンソーコーを受け取った。
男はもう一度悪かったと謝ると、足早にその場を離れた。
揺れるドクロのピアスは、人混みの間をすり抜けて消えてしまった。

男が見えなくなっても、恭介はしばらくぼう然としていた。
バンソーコーを差し出す男の仕草は、用意していたようによどみなかった。
それに倒れたとき、恭介は髪の毛を抜かれたような気がした。
恭介は男の背中の残像を見つめていた。
転がったジャガイモを拾いながら、店員が駆け寄ってきた。



スーパーの外に出て、男はタバコに火をつけた。
しばらくそれをふかしていると、女が歩み寄ってきた。
男はそれに目を向けた。
炎のような赤い短髪に、金のピアスをした女だった。

ネコを連想させる瞳を向けて、女は男に尋ねた。

「うまくいったの」

男は一度煙を吐き出して、それから答えた。

「ああ、対象の血液と頭髪を採取した」

女もタバコを取り出した。
男がくわえたタバコから火をもらって、ひと口吸った。
それからまた尋ねた。

「今度の対象は何者なの」

男はタバコを深く吸った。
そうして吸いがらを灰皿に落としながら、答えた。

「キメラだ。
それも研究室出身じゃなく、自然発生種のな」






第2話

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