Ib[アイビー]
ナチュラルキメラ‐2

ニンジンを切るトントントンという音が、キッチンから響いていた。
その中に、ガチャリと玄関の扉を開ける音が混じった。
恭介は振り返った。
リビングダイニングの扉が開いて、父が帰ってきた。
エプロンをつけた恭介は、にっこり笑って迎えた。

「おかえりー」

恭介の父はただいまーと答えて、ネクタイをゆるめながらソファーに腰を下ろした。
恭介は父に言った。

「ご飯はもうちょっと待っててね。
今晩はカレーだよ」

それから恭介は、キッチンに向き直った。
ニンジンを切るトントントンという音が、再開された。

両親が離婚してから、家事は主に恭介の仕事になった。
五年近く料理を続けた恭介の腕前は、かなりのものになっていた。
大輝などは恭介の料理を食べるにつけ、おまえはオレの嫁になれなどとのたまっていた。

ダイニングテーブルからリモコンを拾って、恭介の父はテレビをつけた。
ニュースの音が、ニンジンを切る音に混じった。
ニュースキャスターは淡々と、今日のニュースを述べていた。

ニンジンを切り終えて、恭介の手はジャガイモに移った。
ジャガイモは回りながら、するすると皮を落とされていった。
ニュースキャスターはニュースを延々と述べた。
恭介はただ、ジャガイモにだけ意識をやっていた。

恭介はジャガイモを切り始めた。
まな板を叩く音が、再開された。
ニュースは流れ続けた。
しばらくはそれらの音だけが、ただ響くだけだった。
そして不意に、恭介は悲鳴を上げた。

「あっ」

父は振り向いて立ち上がった。
包丁が床に落ちた。
恭介は、左手を押さえてうずくまっていた。
父は呼びかけながら近寄った。
恭介は青い顔を上げて、笑顔を見せながら答えた。

「大丈夫。
ちょっと手を切っただけだから」

言って恭介は、傷を見せた。
左手の親指から、血が流れていた。
父は手早く救急箱を出して、手当てをした。
そうしながら、父は言った。

「恭介、おまえ右手にもバンソーコーがあるじゃないか。
気をつけなきゃダメだぞ」

恭介はえへへと笑った。

右手の傷は違ったが、今の行為は自傷行為だった。
恭介は自傷行為について、誰にも打ち明けてはいなかった。
五年前に行為が始まってから、父親にもずっと隠したままだった。

恭介はテレビに目をやった。
インタビューを受ける老人は、「山中で見つかったドクロ」について答えていた。

恭介は傷をながめた。
左手の傷ではなく、昨日スーパーでつけた右手の傷だった。
あのとき会ったドクロピアスの男は、明らかに不自然なところがあった。
恭介は何か、言いようのない不安を感じた。
体が行為を求めて震えた。
それを止めるために、恭介は強く両手を握りしめた。



郊外にある高台は、夜の街並みを一望できた。
その場所に、タバコの赤い光が浮かんでいた。
ドクロピアスの男だった。
明かりのないこの場所で、彼のタバコだけが赤く輝いていた。

赤髪の女が、それに向かって歩いてきた。
女は心なしか不機嫌そうだった。
男は顔を見ずに喋った。

「自然発生のヒトキメラは、多くは血液のみが混合した血液キメラだ。
真のヒトキメラの観測例は数えるほどしかない。
ただどちらにしても、キメラの性質を有していてもそれに気づかない場合は多いんだ。
研究所発のキメラと違って、目的あって作られるワケじゃないしな」

男はそこで初めて、女の顔を見た。
女は不機嫌丸出しでぶーたれた。

「あんた、絶対イヤがらせで呼び出したでしょ。
あたしが木曜のこの時間にやってる海外の映画を楽しみにしてるの知ってて」

男は鼻で笑って、それから無言で手のひらを差し出した。
女はぐちぐちと毒づいた。
それから不承不承、持ってきた資料をその手のひらに叩きつけた。
男はそれに目を通しながら、さっきの続きを話した。

「気づかないのは、気づく必要がないからだ。
キメラであることが社会生活に問題を起こすことは、基本的にはないからな。
ただヤツはちょっと例外的で、ほら見ろ」

男の声のトーンが上がった。
資料の一ヶ所を注視しながら、男は喋った。

「やっぱりだ、コイツが自傷行為の一因だな。
こんな珍しいキメラはそうそうお目にかかれないぜ」

それから男は、資料を女に突っ返した。
女はまだ不機嫌そうだったが、何も言わなかった。
野球帽の下から、男の目つきが見えたからだった。
男は吸いがらを携帯灰皿にしまうと、街並みに目を向けて宣言した。

「明日、藤代恭介に接触する。
ヤツ自身を、崩壊の危機から救うためにな」

街並みの明かりが、男の瞳に反射した。



金曜日の授業は、一見して平凡に終わった。
校門からパラパラと、帰路へつく生徒たちは流れ出ていた。
その中に、恭介はいた。
ボケーッと自転車を押して歩いていると、隣にいた大輝に頭を小突かれた。

「おまえはなー、普段からもうちょっとシャキッとしろー。
そうすりゃ今日の美術だって、彫刻刀を手にぶっ刺すこともなかったろーに」

恭介はえへへと笑って、バンソーコーだらけの左手で頭をかいた。

美術の時間における恭介の行動は、完全な自傷行為だった。
恭介はそれを、あえて止めなかった。
行為をウッカリとしてみんなに見せることで、他の傷を怪しまれなくしていた。

イチョウは金の葉を、ひらひらと落としていた。
大輝は恭介の横顔をうかがった。
それから顔を前に戻して、言った。

「おまえはなー、もうちょっといろんなことに注意しろー。
おまえが傷つくたびにオレのこのガラスのハートが震えるのが分かんねーのか、ボケー」

恭介はえへへと笑った。
それから、心なしか声のトーンを落として答えた。

「うん。
ごめんね」

二人は並んで、一緒に歩いた。
イチョウは舞い続けた。
着床したイチョウはアスファルトを染めて、金色の道を二人の前に差し出していた。

そしてその先に、ドクロピアスの男がいた。

その姿を認めて、恭介は立ち止まった。
思わず息をのむ動作が、向けられた大輝の目にとらえられた。
大輝は男に顔を向けた。
男は見えない瞳を恭介に向けて、ただ冷淡に宣言した。

「藤代恭介。
おまえの身体的特異性とそれに関連する無意識下での特異的行動について話がある。
拒否は賢明な判断ではない」

イチョウは、舞い続けた。






第3話

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