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呪術師・瑠架‐1

笹原俊彦は幻覚を見ていた。
ひたすらに恐怖をあらわにしながら、夜の街を逃げ回った。
自身の首に巻きついたネクタイがヘビに見えて、笹原は力づくで引きちぎった。
下手な引き方をして爪がはがれたが、それを気にする余裕などなかった。
笹原は若者にぶつかった。
いちゃもんをつける金髪の若者を、笹原は刃物を突き立てただけで走り過ごした。
刺された若者が声を上げて、辺りはざわめき立った。
笹原はそれも意に介さず、ただおびえたまま広い道路へ飛び出した。
クラクションが響いた。
大型のトラックが、止まりきれずに笹原を強く跳ね飛ばした。

笹原の意識が消える直前、笹原は言葉を吐いた。

「る、か」

遠い場所で、女性はにやりと笑った。
その女性――水野瑠架は、カレンダーを見ながら歌うようにつぶやいた。

「三〇日。
今日で呪いが、成立する。
明日になれば、彼の死亡の連絡が来る」

瑠架はワインを開けた。
笹原のいる場所から電車で一時間の自宅で、瑠架は一人ささやかに祝いを上げた。

笹原の死は、翌日瑠架の耳にも届いた。
笹原の血液からは、幻覚作用のある違法ドラッグが検出された。



曇り空が広がっていた。
乙部隆一はコーヒーを飲みながら、喫茶店の窓から空を見ていた。
降らなければいいが、そう考えたとき、乙部に声がかけられた。

「お久しぶりです、乙部刑事」

乙部はそちらに顔をやった。
髪の長い、化粧っ気は薄いが顔のつくりのいい女性が、そこにいた。
乙部はにっこりと笑って、向かいの席をうながした。

「よく来てくれました、水野さん」

水野瑠架は、乙部の向かいに腰を下ろした。
やってきたウェイトレスに、瑠架はカプチーノを注文した。
それから瑠架は、向かいにいる乙部に顔を向けた。
ひょろりと背の高い、くたびれた中年の刑事。
その乙部は一度コーヒーに口をつけると、唐突に口を開いた。

「これで三度目だ。
違法ドラッグの中毒で死んだ人間の親しい人物として、あなたに話をうかがうのは」

瑠架は、わずかに視線を下げた。

乙部が瑠架と初めて会ったのは、一年前のことだった。
二〇代の女性が自宅で違法ドラッグの中毒により死亡し、
その大学時代からの友人として、瑠架に話をうかがった。
半年前には交通事故で死亡した二〇代の男性から同種の違法ドラッグが検出され、
瑠架はその男性とひと月前まで交際していた元彼女だった。
そして今回トラックにひかれ死亡した笹原俊彦は、瑠架の会社の直属の上司。

乙部はその話を軽くさらえて、そして最後につけ加えた。

「三人とも、薬の入手経路がまったく調べがつかないんです。
それどころか、現物としての薬もその容器も使用するための道具も、
およそ薬を使用する人間が残しているべき痕跡を何ひとつ残していないんです。
三人に共通するのはその事実と、全員あなたと近しい関係にあったということだけで」

瑠架は、いぶかしむような顔をして尋ねた。

「私が疑われてるんですか」

乙部は首を振った。

「いえいえ、そういうわけではありません。
あなたの身の回りを調べましたけどね、
薬を入手できるつながりも提供した可能性も見つかっちゃいません。
そもそも薬をどう使っていたかも分からない現状、
いきなりあなたが怪しいなんて話はできませんよ、警察の捜査としてはね」

瑠架は、まゆ根をしかめた。
ウェイトレスが、カプチーノを持ってきた。
瑠架がそれを口にしながら、二人は話を続けた。

「笹原さんとは、何かトラブルとかはありましたか」

「ないとは言えませんね。
笹原課長、わりと女性を見下す人で私を含めた女性社員とはよくもめてました。
そのくせ特別仕事ができるわけでもないですし、まあ、私はわりと仕事できるので、
お互いに邪魔に思ってましたね。
こういう言い方はよくないかもしれませんけど、あの人に死んでもらったおかげで、
私の昇進するチャンスが増えたともいえますよね」

「ずいぶんと、臆面なく言いますね」

「だまっていても、他の人に聞けば分かることですから。
それに私が疑われたとしても、何も困ることはありません。
私は殺してないんですから、三人とも」

飲みかけたコーヒーを止めて、乙部は瑠架に目を向けた。

「殺し、ですか。
それはつまり、あなたは三人が薬物乱用によって中毒死したのではなく、
殺人目的で薬を盛られたと考えているんですか」

瑠架のくちびるが、ほんの少しだけ笑ったようにゆがんだ。
カプチーノに一度口をつけてから、その口を開いた。

「単に、そう思っただけです。
三人とも以前に、死んで欲しいと思ったことがあるので。
でも、思っただけですよ。
それで呪いをかけたこともありますけど、薬を盛るなんて大それたことしませんよ」

「呪い?」

乙部は片方のまゆをつり上げた。
コーヒーのカップを置いて、乙部は尋ねた。

「呪い、って、それってどんな」

瑠架は目を伏せる仕草をしながら、それについて話した。

「あんまり、刑事さんに堂々と話せることじゃないんですけどね。
『死ね』って言うんですよ、面と向かって。
自分が鬼か悪魔にでもなったようなイメージをして、のどの奥から毒の煙でも吐くようなイメージで、
自分の不満とかイライラを全部乗せて、『死ね』って。
そうやって一度抑えてた自分をさらけ出すと、気分がスカッとするんです。
あの人たちが訴えてたら犯罪ですよね、脅迫罪かなんかで」

瑠架は目を上げた。
乙部はその目を見たとき、背すじが凍るような感覚を受けた。
瑠架の目は、そういう目をしていた。

乙部はごまかすように首を振って、それから質問を続けた。

「その『呪い』、三人全員にやったんですか」

「ええ、三人とも。
死ぬ一ヶ月くらい前に」

「全員とも一ヶ月前?」

「ええ、そうですね、全員一ヶ月前です。
言われてみればみんなきっかり一ヶ月で死ぬので、こっけいですよね、不謹慎ですけど。
この呪い、本当に効いてるんですかね」

「その呪いと、ドラッグは何か関係がありますかね」

「知りませんよ、そんなこと。
言ったでしょう、私はドラッグなんて全然知らないし、なんの関係もありません」

瑠架はカプチーノを飲み終えた。
乙部はさらにいくつか質問をして、それから席を立った。
去り際に、瑠架が乙部に問いかけた。

「仮に、仮にですよ。
私の呪いが、本当に人を殺す力を持っていたとして。
それを知った上でこの呪いを使ったら、私は殺人罪になりますかね」

乙部は振り向いて、答えた。

「この世に呪いなんて非科学的なものは存在しませんよ」

そして乙部は、瑠架に背を向けながら宣言した。

「今回笹原さんは、刃物で男性を刺しました。
分かりますか。
この違法ドラッグ事件で、とうとう不特定の第三者にまで被害がおよんだんです。
幸い刺された人の命に別状はなかったものの、あってはならないことです。
これ以上犠牲者を増やさないためにも、今回で事件のケリをつけたい。
私は、そう考えています」

乙部は二人分の勘定を済ませて、外に出て、それから舌打ちをした。
瑠架の視線の先で、乙部は小走りで雨の向こうへ去っていった。

瑠架は鼻でひとつ息を吐いた。
それから自身も席を立って、喫茶店の外へと向かった。
瑠架が完全に立ち去ったところで、瑠架の背後の席にいた女性が立ち上がった。
女性は猫のような瞳を一度出入り口に向けると、瑠架の使ったカップに指をはわせた。

炎のような、赤い短髪をした女性だった。






第2話

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