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呪術師・瑠架‐5

日はかげって、人々の影は長く伸びていた。

ライオンの目の男は瑠架を見つめて、一歩一歩歩み寄っていった。
瑠架は後ずさりながら言葉を吐いた。

「ちょっと、ちょっと待ちなさいよ。
仮に、仮によ、笹原課長たちが死んだのが、
その新種のウイルスってのがあたしから感染したのが原因だったとしたら。
あたしだって感染してるはずでしょう。
ウイルスを持ってるはずのあたし自身が死んでないから、その話は成り立たないでしょう」

ライオンの目の男はマスク越しに、言葉を突き出した。

「ウイルスは感染しても必ず発症するとは限らない。
人によっては、感染はするがそれが体内で害を及ぼすのを防ぐ遺伝子を持っている可能性もある。
おまえの遺伝子に違法ドラッグの生成を阻害する遺伝子があるとすれば、この話は成り立つ」

瑠架はぐっと奥歯を噛みしめた。
歩みを止めない男に対して、瑠架はさらにわめいた。

「たとえ、そうだとしても。
それでどうやって、呪いを成立させるっていうの。
あたしは呪うことしかしてないわ。
それでウイルスが、例えばカゼのウイルスみたいに感染するんなら、
普段の生活でそこら辺の人たちに感染させててもおかしくないはずよ。
でもドラッグで死んだのは、あたしが呪いをかけた人しかいない。
これはどう説明するのよ。
普段の生活で人に感染させずに、呪いたいときだけ呪いたい人に感染させる、
そんな都合のいい方法があるっていうの?」

男は歩きながら、淡々と喋った。

「その話はレトロウイルスでなくバクテリオファージ、
こいつは動物の細胞ではなく細菌の細胞に感染するウイルスだが、を例にとって説明できる。
ある種のバクテリオファージは細菌に感染したのち、
細菌のDNAに自身のDNAを組み込んで活動を停止するものがいる。
そのDNAはあたかも細菌のDNAの一部であるかのように振る舞い、
細菌が細胞分裂を行う際は自身も複製されて新しい細菌に潜伏する。
そして細菌が熱や紫外線などの特定の刺激を受けたとき、
眠っていたウイルスDNAが一気に増殖を開始し、細菌の細胞壁を突き破って四散する。
おまえは呪いをかけるとき、精神が高揚して一種のトランス状態になっているんだろう。
そのとき出るホルモンや脳内麻薬なんかがウイルス増殖のシグナルとなれば、
ウイルスは呪いをかけるときだけ増殖し、
そのとき目の前にいるであろう呪いたい人間だけに感染するということも起こりうる」

「でも」

瑠架は、目をきょろきょろと動かした。
男に言われた内容を反すうしながら、瑠架はゆがんだ笑みを浮かべながら言葉を吐き出した。

「あなたの話、聞いてると、さ。
あるとすればとか、起こりうるとか、全部、仮説の話じゃない。
要するに、何も分かってないんじゃない。
そんな状態で、隔離施設だとか呪いの正体だとかべらべら喋ってんじゃないわよ!」

「そうだ、何も分かってはいない」

男は歩みを止めた。
夕焼けの逆光の中で、瞳だけを奇妙に光らせながら、男は言った。

「だがウイルスは見つかった。
それだけで、おまえは我々に協力する義務がある」

瑠架は、ぐっと押し黙った。
くちびるのすき間から、熱く熱く息が震えて流れていた。
感染防護服の人間たちは、瑠架の後ろで壁のように直立していた。
瑠架の前にライオンの目の男がいて、その向こうでは赤髪の女が別の感染防護服に保護されていた。
夕日は強く光って、感染防護服も何もかもをだいだい色に染めていた。
瑠架にはもう、退路はなかった。

感染防護服の一人が、瑠架の肩に手をかけようとした。
瑠架は振り向いて叫んだ。

「触らないで!」

瑠架が右腕を振った。
感染防護服の腕に、切れ目が走った。
瑠架はナイフを握っていた。
感染防護服は、傷を押さえて後ずさった。
瑠架はナイフを両手で握って、瞳をぎらぎらと光らせて、言葉を吐いた。

「死ね」

感染防護服はぎくりとした。
体毛がすべて逆立つような威圧を吹き出して、鬼のように歯牙をむいて、瑠架は言葉を吐き出した。

「死ね、死ね、死ね、死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

ライオンの目の男が声を上げた。

「いかん、呪いをかける気だ。
みんな下がれ、防護服を破られたらアウトだぞ!」

防護服の人間たちはざわざわと後ずさった。
瑠架はナイフを振り回して、防護服の壁を突破しようとした。
ライオンの目の男は工事資材から棒切れを拾って、瑠架の足を目がけて投げた。
瑠架は足がもつれて転んだ。
ナイフが手から離れて、感染防護服の一人がそれを蹴って遠くにやった。
ライオンの目の男は、瑠架を取り押さえようとした。
瑠架は素早く立ち上がって、男の防護服を引きちぎりに飛びかかろうとした。
その瑠架の手に、何かが飛びついた。
瑠架は痛みを感じて、それを振り払った。
地面に着地したそれは、猫だった。
その猫は、緑色蛍光タンパク質を遺伝子導入された猫だった。
猫は夕日のわずかな紫外線を浴びて、うっすらとほの緑に光っていた。
猫の視線が、見下ろす瑠架の視線を真っ向からとらえていた。

瑠架はずっと、呪いを吐き続けていた。

「死ね、死ね、死ね、死ね、死、げほっ、ね、が」

瑠架の口から、血がこぼれた。

瑠架はごほごほとせき込んだ。
その口からはらはらと、血のしずくが散った。
感染防護服たちはざわめいた。
ライオンの目の男はその様子を見て、思考をめぐらせた。

「ウイルスが増殖してばらまかれるとき、感染を受けていた細胞は破壊される。
破壊されるのが一部の細胞だけならカゼの症状と変わりないが、
もしすべての感染細胞が一斉にウイルスをまき散らしたら。
やめろ水野瑠架、それ以上呪ったら、おまえが死ぬぞ!」

瑠架は胸をかきむしった。
息がつまり、血が口元を赤く染め、なお呪いの言葉は止まらなかった。
瑠架は唐突に倒れるように走り出して、感染防護服の一人とぶつかった。
ふらつきながら、瑠架は感染防護服の顔を見た。
防護服の顔の上に、別の顔が張りついて見えた。
その顔は、瑠架を見つめて言葉を喋った。

『よくも殺してくれたな、水野』

それは笹原俊彦の顔だった。

声にならない悲鳴が、瑠架の口から吐き出された。
肺の中がからっぽになり、息を吸おうとして血が逆流して気管をつまらせた。
瑠架はめまいを起こして、吹き飛ぶようにその場に倒れた。
感染防護服の白い足が、ばたばたと瑠架の視界を動き回った。
その足と足の間に、生首が見えた。
生首は半年前に呪いで殺した元彼だった。
瑠架はもがきながら、四足でアスファルトをはいずり逃げた。
アスファルトで腕をすりむいて、血が出た。
その傷口は一年前に呪い殺した友人の顔になって、瑠架は叫びながら傷口をかきむしった。

ライオンの目の男が声を上げた。

「まさか、幻覚を見ているのか。
ウイルスの活動が活発になりすぎて、ドラッグを無力化する能力が間に合ってないんだ。
おい誰か、鎮静剤を用意しろ。
呪いをやめさせさえすれば、幻覚もおさまるかもしれん」

瑠架は体中をかきむしりながらのたうち回った。
感染防護服たちは瑠架を押さえようとしたが、防護服を破られることを恐れて手が出せなかった。
瑠架は立ち上がって走り出し、壁に身を打ちつけて、また血を吐きながら走り回った。
幻覚は瑠架を取り囲んで、身をなで、視界を埋めて、言葉を浴びせた。

『単位をあげよう水野君。
たたた単位をあげよう水野君、わたわた私の言うことを聞いてくれたら』

『彼があんたのあんあんたのこと好きだって言ったの。
あんたが邪魔なあんたが邪魔な邪魔なのあんあんあんたが』

『あたしはこんなに頑張ってるのに。
どうしどうしてみ水野さんの方がどうして頑張頑張頑張ってるあたしより成績が成績がいいの』

瑠架は血を吐き、髪をかきむしり呪いを吐いてまた血を吐いた。
ライオンの目の男は瑠架に駆け寄って、瑠架を押さえ込もうとした。
瑠架は体ごと男に突進して、男を突き飛ばした。
瑠架は空を見上げて呪いを吐いた。

「死、あっ、ね、あっお、死っが」

瑠架は血を嘔吐した。
ライオンの目の男は再び走り寄って、瑠架の首筋に拳を打ちつけた。
倒れた瑠架を押さえ込んで、腕に鎮静剤の注射を打った。
瑠架は幻覚を見た。
小学生の女の子が瑠架の前に立って、瑠架を見下ろして、瑠架に喋りかけた。

『ねえ、るかちゃん。
あたしはどうして、死んじゃったんだろう』

男は瑠架を抱き上げて、しっかりしろと呼びかけた。
瑠架の顔は血に染まって、焦点がまったく合っていなかった。
その瑠架の目から、涙が流れた。
震えながら、瑠架は最後の言葉を吐いた。

「ごめ、ん、な、さい」

瑠架の胃が強く収縮して、口から血が噴水のように噴き出した。
男のゴーグルが血を浴びて、前が見えなくなった。
瑠架の力が抜けるのを、男は腕で感じた。
他の感染防護服が救命用具を持ち出すのを、男は無駄だと思いながら押し黙った。

夕日は沈んで、空は青く変色した。
水野瑠架はそのまま、蘇生しなかった。






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