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呪術師・瑠架‐エピローグ

とあるビルの階段を、赤髪の女は登っていた。
階段の途中に、タバコの吸いがらが落ちていた。
女はひとつため息をついて、それから吸いがらを拾って片づけた。

階段を登りきると、屋上に出た。
夜の街の喧騒を見下ろして、ドクロピアスの男は立っていた。
男の足元には、タバコの吸いがらがいくつも落ちていた。
赤髪の女は歩み寄って、吸いがらを拾い集めるためにかがみながら言葉をこぼした。

「まったく、こんなに吸い散らかして。
毎度毎度死人が出たら、子供みたいにすねるんだから」

男は黒い野球帽の下から、ライオンのような視線を女に射向けた。
女は拾い終わると立ち上がって、資料を見ながら報告した。

「ウイルスの解析がひと通り終わったわ。
水野瑠架のウイルスは、状況に応じて二種類のウイルス粒子を作るそうよ。
普段は空気に弱い血液感染タイプのウイルス粒子で、これは通常個人の中でしか増殖しないけど、
特定の脳内物質が作用すると、ウイルスの遺伝子は普段と違う遺伝子情報を発現するんだって。
これで作られるウイルス粒子は、空気にもある程度の耐性を持ってて、
カゼウイルスみたいに空気感染を起こすんだってさ」

男は視線をフェンスの外に向けて、黙って聞いていた。
女は報告を続けた。

「水野瑠架が自分のドラッグで死ななかったのは、
あんたの予想通り彼女自身が特別な遺伝子を持ってたからみたいよ。
ただドラッグ合成を完全に止められる遺伝子じゃなかったから、
ウイルスが極端に活発な活動をするとドラッグ生成を防御できなくなるって。
水野瑠架の最期みたいに」

男はタバコを一本くわえて、火をつけた。
女は男の表情をうかがってから、自分もタバコを取り出して火をつけた。
煙を一服吸ってから、女はさらに報告した。

「ウイルスの種類は、当然だけど今まで見つかってない新種のウイルスだったって。
ただしドラッグを作る遺伝子はもともとそれを作っていたものの遺伝子とまったく同じ配列で、
それ以外の遺伝子も、かなりツギハギだけど既存のウイルスと似てるところが多いんだってさ。
今のところ、これが人為的に作られたのか自然環境で突然変異したかは不明」

男はふっと笑って言った。

「自然発生だったら、怖いな」

女は首をかしげた。
男は女の様子を見て、タバコをひと口吸ってから説明した。

「自然発生のものは、止めようがないということだ。
核兵器を作るなということは可能だが、SARSやペストを作るなと訴えても無意味だろう。
その上ウイルスや細菌は、人間とは比べものにならないスピードで進化しやがる。
そのウイルスもちょっと変異が入れば、カゼのように簡単に感染するようになるかもな」

それから男は、体ごと女の方を向いて尋ねた。

「感染性はどうだ、ヒト以外の」

女は資料を見返して答えた。

「ヒト以外の動物への感染は、確認した限り見つからないそうよ。
猫にも感染しないってさ、よかった」

男はあごに手を当てて、考え込むように喋った。

「となると動物から感染した可能性はないってことだな。
つまり日常生活の中で偶然感染したにしろ、なんらかの理由で人為的に感染させられたにしろ、
水野瑠架があのウイルスに感染した経緯には必ず人がかかわっているということだ。
元をたどりたいが、水野瑠架を死なせてしまった現状では難しいか」

女はくちびるをとがらせながら言った。

「やっぱ、元を探らなきゃダメ?」

男は女のひたいを小突いた。

「当たり前だ。
人為的なもんならオレたちの本業だし、自然発生にしたって、放置できるものじゃない。
特別な遺伝子とはいえ、水野瑠架同様キャリアになれる人間はいるだろうからな。
元だけじゃない、水野瑠架から感染を受けてキャリアになった人間もいるかもしれない。
呪いを受けたのに死んでないとか、そんな人間がいなかったかも確認しないと。
ウイルス遺伝子を持った人間が何人も現れたら、かなり面倒なことになるぞ」

女は言われながら、資料をながめた。
赤髪を中指でくしけずりながら、女はしみじみと漏らした。

「なんか、不思議な感じよね。
遺伝子って、生物を形作る一番根幹の存在でしょ。
それがちょっとウイルスに感染されたくらいで、簡単に書き換えられちゃうなんて」

男はタバコを吸いながら言った。

「遺伝子を書き換えるウイルスなんてざらにいるぞ。
エイズのHIVウイルスや、細胞をがん化させる腫瘍ウイルスとかな。
ウイルスだけじゃなく、紫外線なんかでも遺伝子は日々損傷するし。
そうだな、試しに聞くが、一般的なヒトにおいて遺伝子の損傷は一日に何回くらい起こってると思う」

女は頭をひねった。

「え、知らないわよそんなの。
でも、ええっと、遺伝子の損傷って、確かがんの原因になるんでしょ。
うーん、勘で一〇〇回くらい?」

男はタバコをくわえて答えた。

「五万から五〇万回、だそうだ」

女はびっくりした様子を見せた。

「えーっ、そんなに多いんだ。
じゃあヒトの体では、がんのもとになる細胞が一日に五万もできてるの?」

男はくくっと笑った。

「発想がズレてるぞ。
五万から五〇万回って数は、細胞一個あたりの回数だぜ」

女はぽかんとした。

「いっこ?」

男はタバコを吸いながら、視線を遠くの方へ向けて喋った。

「細胞一個一日あたり五万から五〇万回。
ほぼ一秒に一回と換算してもいいスピードだ。
そしてヒト一個体には、およそ六〇兆個の細胞が存在するわけだが。
ヒト一個体全体での一日の損傷回数は、まあ、計算はしないでおくかな。
兆の上のケタがなんだったか、知ってるか」

男はそれから、街に視線を向けた。
転落防止柵のすき間をぬって、街の明かりは明滅し、タバコの煙は流れた。
夜風を受けながら、男は喋った。

「熱、紫外線、ウイルス、活性酸素、化学物質、そして老化。
遺伝子は常に損傷の危機にさらされて、生命はそれをこともなげに修復していく。
だが修復が追いつかないような大きなダメージを受けたとき、
もしくはもともとがんになりやすい因子があるとき、細胞は暴走してがんになる。
どちらにしろ、がんということに変わりはないが」

ドクロピアスの男は、転落防止柵に体重を置いた。
柵にからんだ指からタバコの紫煙をこぼしながら、男は言葉を吐き出した。

「水野瑠架は、どっちだったろうな。
人を殺すような人間だったから、呪いで人を殺したのか。
呪いで人を殺したから、人を殺すような人間になったのか。
今となっては、確かめるすべはないがな」

男はしばらく、街を見下ろしていた。
それから不意に、指を柵のすき間に差し込んだ。
女は止めようとした。
男はそれを聞く間もなく、指から火のついたタバコを放り出していた。
女が怒るのを背中で聞きながら、男はつぶやいた。

「遺伝子は一箇所や二箇所くらい配列が変わっても、機能に変化がないこともある。
自分の細胞のいったいどれだけが、自分と同じ遺伝子を持っているだろうな」

そして男は、街の景色に背を向けた。

紫煙は街の空気をたゆたって、風に広がって見えなくなった。
だが人の目に見えなくなっても、その存在は消えたわけではない。



―Cursecarrier Ruka―






出典・参考資料
レトロウイルス科 - Wikipedia
ファージ - Wikipedia
ベクター - Wikipedia
DNA修復 - Wikipedia
緑色蛍光タンパク質 - Wikipedia



Next case:「天使ノ身体切リ売リ候」

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