Ib[アイビー]
天使ノ身体切リ売リ候‐4

書庫。

旭臣は、書棚と書棚の間の細い道を通っていった。
話がありますと、陽彦に呼び出されていた。
わざわざ呼び出す陽彦の態度に腹立たしさも感じたが、
大事な話であるという陽彦のいつもと違う雰囲気を感じて、ともかく話は聞くことにした。

陽彦は、書庫の最奥にいた。
壁際の、書棚と書棚のわずかな隙間に置かれた椅子に腰掛け、本を開いていた。
旭臣の到着にあわせて、陽彦は顔だけを上げた。
不遜な物腰に旭臣ははっきりと憤怒を示しながら、なんの用だと旭臣に尋ねた。

陽彦は表情を変えずに、さらりと言った。

「天使を連れ出します。
抵抗はしないでください、お父さん」

旭臣の後頭部に、硬いものが叩きつけられた。

旭臣は倒れ込んだ。
割れるような痛みが、頭にあった。
手で触れて、後頭部に血がにじんでいるのが分かった。
鉄パイプのようなもので、殴られた様子だった。
旭臣は背中を見た。
旭臣の知る、この病院での従業員の顔が、そこにあった。

靴の踏む音が聞こえて、旭臣は正面を見た。
陽彦が立ち、旭臣を見下ろしながら言った。

「金庫のお金を拝借して、ここの従業員や、東京での人間を何人か買収しました。
彼らはボクの考えに賛同し、協力してくれました」

何をする気だと、旭臣は怒鳴った。
天使を治療しますと、陽彦は答えた。

「普通の人間にできるめどが立ちました。
ボクは今まで、彼らの特殊な体質の謎を探るため、様々な文献を読んできた。
その中で、興味深い文献を見つけました」

ぱらぱらと、陽彦の手の中で本がめくれた。
そのうちの目的のページに陽彦は指を入れ込んで、内容をかいつまんだ。

「組織細胞の新陳代謝は通常、同じ組織の細胞が細胞分裂することで行われます。
皮膚は皮膚から、筋肉は筋肉から、肝臓は肝臓から、小腸は小腸から。
老化や損傷で失った細胞は周りの細胞の増殖で補われ、他の器官から補われることはない。
なぜなら一度成熟し特定の機能が与えられた細胞は、
異なる機能の細胞へ変化することはできないから。
もし臓器移植をして、他人の細胞が体内に入り込んだとしても、
その臓器以外の組織細胞がその他人の細胞に置き換わるなどということは、普通ありえません。

ところが。
例外が見つかった。
とある組織を移植した患者を追跡調査したところ、その患者の食道、胃、十二指腸、回腸、結腸、
つまり消化器官のあらゆる組織から、
その移植組織から生じたとしか考えられない『他人の細胞』が見つかったのです。
さらにその組織は、筋肉にも、血管にも、神経にも、あらゆる組織に分化することが示されています。

なぜその組織だけ、例外的に他の組織へ分化できるのか。
答えは単純。
その組織には、まだ機能を付与されていない『未成熟』の細胞があったから。

その移植組織は――骨髄でした」

陽彦は、本棚に背をついた。

「骨髄はもともとの性質として、赤血球や白血球など血球成分を作る役割があります。
なので複数の機能細胞へ分化成熟できる細胞があっても、おかしくはないのですが。
この研究はその比ではない、体中のあらゆる組織へ分化できる、
ES細胞に匹敵する多能性幹細胞が骨髄に存在しうることを示したのです。

ボクは考えた。
この多能性幹細胞が、もしも大量に存在したら。
がん細胞のごとく無限増殖的に発生し、それが欠損器官へ流れて、そこで分化成熟したら。
それは失われた器官の再生――『天使』の性質が、得られるのではないか」

陽彦は自分の論を振りかざすように、歩き回った。
旭臣はじゅうたん敷きの毛の感触を顔面に感じながら、動けずにうずくまっていた。
陽彦は続けた。

「ところで、天使に定期的に投与されている『天使の薬』。
あの主成分であるレチノイン酸は、ビタミンである一方、とある疾患の治療薬として効果があります。

その疾患は、血液のがん。
骨髄が暴走して、未成熟の機能を持たない細胞を血液中に大量放出し、
正常な赤血球や白血球が激減してしまう、かつて難病と言われた病気。
レチノイン酸は自身の持つ分化誘導作用により、その未成熟な細胞を成熟細胞に強制成熟させ、
アポトーシス(プログラム細胞死)を引き起こして死滅させるという驚くべき作用がありました。
たかがビタミンのその作用により、難病とされたその疾患の救命率は飛躍的に向上したのです。

その疾患名は――急性前骨髄球性白血病(きゅうせいぜんこつずいきゅうせいはっけつびょう)」

陽彦の顔が、旭臣に向いた。

「天使の血液から、大量の未成熟な細胞が見つかりました。
天使の正体は、白血病。
病名をつけるなら、多能性幹細胞性白血病、といったところでしょうか」

旭臣は、押し黙ったまま陽彦を見上げた。
旭臣の無言が、陽彦の論に否定がないことを物語っていた。

陽彦は続けた。

「白血病と考えれば、様々な天使の特徴が関連づけられます。
天使の羽などの骨変形は、骨髄の異常による肥大化から。
免疫力の低さは、白血病の特徴そのものです。
そう考えれば、天使の治療法は白血病と同じ治療をすればいい。
異常骨髄をすべて除去し、骨髄移植をします。
そのために、天使を連れ出し、治療をしに行く。
治療のための資金がいるので、この病院にあるお金も持っていきます。
もうすぐお金を回収した仲間から、連絡が」

陽彦の頭が、殴られた。

陽彦は倒れた。
血がにじむのを感じた。
痛みと状況に錯乱し、くらんだ目で後ろを見上げた。
鉄パイプを握るのは、陽彦が買収した若い医師の男だった。
男はにやりと口角を上げて、言葉を降らせた。

「陽彦さんのおかげで、大金が回収できましたよお。
んで、気が変わったんで、治療はせずにお金だけもらっていきますねえ」

陽彦は立ち上がろうとした。
その背中が踏みつけられて、陽彦は突っ伏した。
男は陽彦を踏みにじりながら、ねちねちと言葉を吐いた。

「治療なんてさせるわけがないんだよ、ガキが。
せっかくの金を無駄に使っちまうし、天使がどれだけ金を生むと思ってんだ。
安心しな、天使をここから連れ出してはやるよ。
東京持ってってもっと大々的に商売して、たっぷり金を稼がせてもらうさあ」

水の落ちる音が聞こえた。
陽彦がその方向へ視線を向けると、旭臣を殴った男が、手に持ったビンから液体をこぼしていた。
立ち上るにおいは、ガソリンだった。

「仲間たちがすでに、天使を着々と連れ出してる。
後は面倒が起きないように、この病院も村も、全部焼き払って消すだけだ」

マッチの火を点けて、男は陽彦に笑ってみせた。
火の色より、陽彦は感情が燃え上がるのを感じた。
髪の毛がまるで、ライオンのたてがみのように逆立つような気分だった。

走る足音が聞こえた。
書庫の扉が開いて、男たちは振り向いた。
開いた扉には、天使の少年がいた。
下弦だった。

息を切らせながら、下弦は言葉をこぼした。

「陽彦は、ボクらを治してくれるって言った」

逃げ出してきたのかと、マッチの男は下弦を取り押さえようとした。
下弦はふるえながら、絞り出すように言葉を吐いた。

「陽彦は、治してくれるって言ったんだ。この薬で!」

男は、下弦の手を見た。
薬液の入ったビンが、そこにあった。
そのビンが下弦の手から滑り落ちるのと、男がビンのラベルを読み取ったのは、ほぼ同時だった。

――抗がん剤。

ビンが割れて、薬液が飛び散った。
薬液がかかり、男は悲鳴を上げた。
強力な薬剤である抗がん剤は、健常人には猛毒となりうる危険な薬であった。
男はパニックを起こし、マッチを取り落とした。
陽彦を殴った男が叫んだ。
マッチの男の足元には、ガソリンがあった。

火がついた。
男は絶叫しながら、炎に包まれた。
火はガソリンを爆裂させ、書棚に燃え広がって、部屋中をなめ回して広がった。
ごうごうと燃える音が、陽彦の、部屋にいる者たちの耳をなぜた。

陽彦は立ち上がった。
背後の男は動揺していた。
頭の激痛にふらつきながら、陽彦は男を突き飛ばした。
男は本棚に当たって倒れ込み、ばたばたと落ちた本に埋もれ、それを払う前に火が覆いかぶさった。
断末魔。

陽彦は走り出そうとした。
そこで周囲のいくつかの状況を見渡し、行動を躊躇した。
わき立つ炎。
扉付近でおびえる下弦。
そして、うずくまり動けない旭臣。

旭臣に、手を伸ばした。
腕を肩に回し、旭臣を引きずって炎の部屋を動いた。
重かった。
いつしか近づいた身長だが、まだ一六前の陽彦に旭臣の体は大柄だった。
怪我もあいまって、急いで逃げる速度としては遅すぎた。
ガソリンその他を焼く臭気と、酸素の減った空気が、呼吸を詰まらせた。

負われながら、旭臣は問うた。

「治して、どうする。
臓器移植を必要とする人間はごまんといるんだ。
それを助けるすべを失うことになる」

陽彦がまず歯噛みしたのは、怒りの表れだった。
そして問い返したのは、助けたいのなら、なぜ法外な高い報酬を求めるのかということだった。
それは私利私欲ではないのかと、陽彦は絞り出した。

「おまえは社会を分かってない。
無報酬で臓器を提供すれば、それを必要とする人間が見境なく群がってくる。
天使は今以上に切り刻まれ、興味本位の詮索にもさらされ、
その異様さから天使を嫌悪し攻撃する人間も現れかねん。
そうなったとき、そのときこそ天使の人権はどうなる。
だから、金なのだ。
高額な報酬で、天使の過ごす環境を整備する。
裏の商売となることで、むやみに人の目を入れさせないようにする。
そうなってこそ、天使と臓器提供を必要とする者、両方を守ることができるのだ」

陽彦は声を荒げようとした。
それより先に、旭臣の苦悶の声が響いた。
陽彦の視線が滑った。
旭臣の足に、炎が燃え移っていた。

陽彦は、火を消そうとした。
その払いのける動作よりも、火が体幹へ駆け上がるのが早かった。
煙を吸って、陽彦はせき込んだ。
炎の音にまぎれて、扉の近く、下弦がむせる声が耳に届いた。

行け、と、声が聞こえた。
陽彦の視線がさまよって、旭臣の顔へとたどり着いた。
旭臣の声だった。
自分を置いて行けと、そういう意図の言葉だった。

本棚が焼け落ちて、崩れる音が聞こえた。
旭臣は陽彦の体を突き飛ばした。
陽彦はふらついて、扉の近くへ寄った。
下弦に腕を引かれながら、陽彦は最後に、声を張った。

くずおれて音を散らしながら、本棚は旭臣を押しつぶした。






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