青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第六話 斜陽を越えて

十六夜は天頂を通り過ぎていた。

火を起こして衣を乾かしている間、二人はこんこんと会話を重ねた。
そうして親睦を深める過程で、朱狼は身の上話を語った。
朱狼の所属する親衛隊は花坐隊(カザタイ)という隊で、もともと朱狼の父親が隊長だったこと。
知識や能力が備わってきた朱狼を育てるため、父が隊長を代替わりさせたこと。
そういう理由ゆえ、朱狼の隊長という称号は形式的なものであること。
そのせいもあって、隊員からは子供扱いされている節があること。

それらの話を、泊はひざを抱えて聞いた。
赤い炎が二人の前でちらちらと揺れて、泊の顔を照らしていた。
その口から、ふうっとため息がこぼれた。

「そういうのも、やっぱり子供が継ぐもんなんだな」

朱狼は泊に顔をやった。
そうして小首をかしげながら、朱狼は返した。

「別に継ぐのが決まりってわけじゃないさ。
今後花坐隊を抜けて、領主様やそのご子息、つまり美智姫様の兄君に奉公する可能性もある。
あくまで可能性だがな」

泊は息を細く吐いた。
たゆたう火の粉を黒い瞳に映しながら、泊は言葉をこぼした。

「可能性、か。
うらやましいな、あたしにはそんなものないんだ。
あたしはただこの酒宿で育って、酒宿で結婚して、酒宿で封妖酒を育てるだけだ」

朱狼は泊の顔をのぞき込んだ。
垂れ下がってきた前髪を直しながら、朱狼は尋ねた。

「イヤなのか」

こっくりと、泊はうなずいた。
視線は火だけを見すえながら、泊は話した。

「イヤさ。
こんな貧乏で何もない辺境に縛りつけられるなんて、まっぴらごめんだ」

朱狼は、顔を上げた。
後ろに手をついて、景色を見上げながら朱狼は喋った。

「何もない、かな。
オレはいい集落だと思うが」

泊はひざを抱きかかえて、皮肉げに言った。

「なら、ずっとここで暮らしてみなよ。
周りのものすべてが見飽きてくるさ」

そう言って、しばらくしてから泊は首を振った。
自分で言った言葉を深読みしすぎて、思わず赤面してしまった。
朱狼はそれにはまったく意識がいかず、ただ見上げたまま喋った。

「貧乏っていうのも、納得いかないな。
最初に泊が着てた衣はいいものだったし、封妖酒もあの値段を渡せる品だった」

泊はふっと鼻で笑った。
当てこするような口調で、火先のゆらめきを見つめながら泊は喋った。

「えらい人間特有の考え方さ、金さえ渡しておけば万事うまくいくと思ってる。
そりゃ確かに、封妖酒は高く売れるさ。
売った金を使えば、いい品物が買えるさ。
どこでだ。
この孤立したちっぽけな集落で、上等な衣や飾り物が買えるか?」

朱狼は顔を泊に向けた。
泊はそれに視線をやらずに、ただ火だけを見つめて吐き捨てた。

「買えねえだろ。
何日もかけて山を下って城下町まで行って、そこで初めて買い物ができんだ。
その買い物だって、収入を全部使えるわけじゃねえ。
長旅だから旅費がいる。
盗賊から身を守るために護衛を雇う。
金を使うために金をかけるなんて、バカみたいじゃねえか」

泊の声は熱を帯びていった。
ゆらゆら揺れる火の正面で、泊はもはや怒鳴るように喋った。

「金だけならまだマシだ。
もともとなかったものなんだから、ちょっとでも価値のある品が買えればそれでいいさ。
でもそれを使うために、もっと大事なものがなくなる。
バカみたいじゃねえか、護衛まで雇って、たかが買い物に行っただけで。
あたしの兄貴は!」

泊は立ち上がった。
そうして、肩を上下させながら、ただうつむいて押し黙った。
泉は、静かになった。
炎だけが、ただちろちろと揺れ動いていた。
朱狼は泊を見上げて、何も言えずに困惑した。

泊はへたり込んだ。
両手のそでで涙をぬぐいながら、泊はくぐもった声で謝った。

「ごめん。
こんなこと、朱狼に言うことじゃないのに」

朱狼は、うつむいて首を振った。
そのくちびるは動いたが、うまく言葉をつむぐことができなかった。

紅葉が、ひらひらと泉の中央に落ちた。
紅葉はか細い波紋を水面に広げて、岸辺まで到達して、それから見えなくなった。

朱狼はやっと言葉をつむいだ。

「そろそろ、戻ろうか。
もう夜も遅いから」

そうして朱狼は立ち上がった。
起こした火は、もう朽ちようとしていた。



美智姫の体調不良を理由に、花坐隊の滞在が一日延長された。
泊は一番上等な衣を着て、彼らの世話に走り回った。
昨夜朱狼と別れてから、泊は途中だった薪の準備をした。
そのため泊は、ろくに睡眠を取れなかった。
まどろむ目をこすりながら、泊は仕事を続けた。
その姿を、杜氏は不審に思った。
そして下男の耳打ちによって、その真相を杜氏は知った。

部屋に呼びつけた泊を、杜氏は思い切り引っぱたいた。
床に倒れた泊を、杜氏は容赦なく怒鳴りつけた。

「このバカ娘が。
おまえ、昨日あの親衛隊長様と話をしとったそうじゃないか!」

泊は上半身を起こした。
その胸倉を、杜氏はつかみ上げてどやした。

「しかも隊長様を怒鳴りつけて?
下男が全部聞いとったぞ。
おまえは自分が何をしたか分かっとるのか。
あの方とおまえにどれだけ身分の差があるのか、わきまえろ!」

「朱狼は身分なんて気にしない!」

泊は必死で反論した。
杜氏は泊を、乱暴に振って床に叩き落とした。
うずくまる泊を、杜氏はただ冷徹に見下してののしった。

「だからおまえは子供なんだ。
おまえは大人の社会をてんで分かっとらん。
杜氏を継げるのはおまえしかおらんが、やはり女は男のようにはいかんな」

泊は、その言葉を聞いていなかった。
その手がつかんでいた衣の肩口には、破れ目が走っていた。
泊はきっと顔を上げて、杜氏に叫んだ。

「衣が破れた。
乱暴にするから、衣が破れたじゃないか」

杜氏は頭に血を上らせて怒鳴った。

「衣など今はどうでもいい!
そんなもの今の暮らしができればいつでも買えるんだ、暮らしができればな!」

泊はくちびるを噛んだ。
胸がひどく詰まって、その目からぽろぽろと涙がこぼれた。
そして泊は、最後にわめいた。

「これ、おにいが買ってくれた衣なのに!」

泊は駆け出した。
部屋を飛び出して、驚いた下男が止めるのも聞かずにただ走った。
涙をただ流して、家も集落も全部飛び出して走った。
そうして泊は、紅葉する林の中まで来た。
泊はそこで足を止めた。
それから、ただわんわんと泣き声を上げた。
紅葉は、ただ静かに沈黙していた。



泣き疲れて、泊はいつの間にか眠っていた。
目を覚ますと、空はもう暮れていた。

泊は立ち上がって、林を抜けた。
そこはあの泉だった。
歩き回っていたうちに、いつの間にかこの近くまで来ていた。

泊は石に腰を下ろした。
冷たさが、泊にじわじわとのぼってきた。
泊の眼前では、泉が夕日を映してやんわりと照っていた。
泊はそれを見つめながら、なんの気なくつぶやいた。

「朱狼」

その直後、泊は何かがそばに寄る気配を感じた。
なんの姿も認めないまま、泊の耳に聞いたことのない声が届いた。

「アブナイヨ。
ヒトリデハヤシデアソンデチャア」

泊は震えた。
きょろきょろと辺りを見回しながら、見えない相手に呼びかけた。

「誰?」

姿は見えなかった。
ただ声は、泊のすぐそばで喋った。

「アブナイヨ。
ヨルノハヤシハ妖ガデル」

そして眼前の空間が、ぐにゃりとゆがんだ。
そのゆがみはどんどん形を作って、そして黒く不透明になっていった。
現れたのは、クマほどの大きさのある、真っ黒なリスだった。
リスは赤黒い目をぎらつかせて、門歯をニタアッと突き出しながら泊に言った。

「アーソボウッ」

泊は立ち上がった。
逃げようと振り向いて、足がもつれて転んだ。
その体に、リスの巨体がのしかかった。
体毛の感触と熱い体温とが泊の全身にすり寄ってきて、泊は悲鳴を上げる余裕もなかった。
リスは泊をあお向けに転がして押さえつけた。
泊の視界をリスの顔が埋めて、その口からよだれがボタボタと落ちた。
リスの顔が、泊の顔に迫った。

そしてその顔は、横一文字に切り裂かれた。

泊の視界に、夕焼け空が広がった。
その中に、夕日よりも赤く輝く髪の毛が踊っていた。
赤い瞳が、泊の視線とぶつかった。
紅葉が地面に落ちるくらい自然な動作で、朱狼は泊のもとへ降り立った。









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