青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第一〇話 いざなわれては

小糠雨(こぬかあめ)が降る山肌で、炎の蝶がひらりひらりと舞っていた。
蝶は小さなほら穴までたどり着くと、中で腰を下ろしていた人物の指先に止まった。
指先の蝶をとび色の瞳で見つめながら、白納仁は漏らした。

「やはり、近くに妖がいるようじゃのう」

隣に座っていた一夜が、それに続いて口を開いた。

「現在、千夜と通信を行っておりますが、何者かの干渉を知覚できます。
通信を妨害するとともに、『こっちへ来い』という趣旨を私たちへ送ってきています」

くすりと笑う声が聞こえた。
一夜と白納仁は、ほら穴の奥に顔を向けた。
悠然と紅を直していたその男性は、一夜に尋ねた。

「千夜ちゃんと一夜ちゃんの通信って、確かお互いの精神をつなぐものだったわよねえ」

一夜はうなずいて返した。

「自身が一次的に産生する妖力を用いて、私と千夜との間に特異的な魂の接続を形成する能力です。
それに干渉が可能ということは、不特定の第三者の魂に干渉が可能と考えて相違ないと考えられます。
恐らく、白納仁様と類似した能力の持ち主ではないかと」

紅を塗り直されたくちびるが、にやりと笑った。
金と緑の髪飾りをちらりと揺らして、李乃はうっとりとささやいた。

「今夜は少し、楽しいことが起こるかもしれないわね」

李乃が瞳を向けた先に、小糠雨は散り続けていた。



山のふもとにある小屋で、美智姫と朱狼は話を聞いていた。
年老いた狩人は、手製の弓を仕立て直しながらとくとくと語った。

「山に住んでいるのは、幼い少女の姿をした化け物だ。
集落の仲間はみんなヤツに殺されちまった」

美智姫は正座を直して、それから青い瞳を向けて要求した。

「詳しいお話を、聞かせていただけますか」

老人は何も返さずに、ただ語ることだけを語った。

老人の住んでいた集落には、占い師の一家がいた。
占い師は年に一度封妖酒を飲み、その妖力を使って一年の実りや雨などの天候を予知していた。
集落で唯一妖術を使えるその家系は、集落の人間から尊重されていた。
その占い師の家に、奇妙な子が産まれた。
子は一家の誰とも違う、金の髪と緑の瞳を持っていた。
そして子は、封妖酒の力を借りずに妖術を扱うことができた。
真夏に雪を呼び寄せ、人の考えを読み、死者をよみがえらせ、そして山の妖怪と意思を疎通した。
その山の妖怪が、集落の人間を食い殺した。

老人は最後に、こうつけ加えた。

「集落の人間を食って構わないと、その子が妖怪に言った。
息子が残した血まみれの手紙に、そう書いてあった」

落ちくぼんだ瞳は、ただ手元だけを見つめていた。



小屋の裏手に立って、朱狼と美智姫は雨の山を見上げた。
山は灰色の雲を背負って、昼間にもかかわらず薄暗かった。
視線をそちらに向けたまま、美智姫は問いかけた。

「どう思うかしら、朱狼」

朱狼は美智姫を見ずに返した。

「真夏に雪を呼び寄せる以外は、魂に干渉する能力と考えていいと思います。
千夜と一夜の通信が妨害されていることも、その能力の延長でしょう。
代々予知能力を持つ家系だったのなら、それほど不思議な能力ではないです」

美智姫は朱狼に目を向けて、提起した。

「問題は、妖力」

朱狼はうなずいた。

「妖力を自己供給できる人間は限られています。
それを発現できるのは、通常は特別な血を持つ場合だけ。
美智姫様の青玉の血や、千夜と一夜の結(ムスビ)の血など一部の血です。
血縁と無関係に発現する人間は、大陸全体で五〇年に一人も現れないと言われる例外的な存在」

美智姫はくすりと、戦慄するように笑った。

「もっともその例外的な人間の一人が、うちのチームの中にいるわけだけど」

朱狼は美智姫の顔を確認した。
それから視線を、雨に湿る山に戻した。
山は静かに、二人を見下ろしていた。

しばらくして、美智姫が口を開いた。

「一度、その女の子に会ってみたいわね」

「なんですって?」

朱狼は美智姫を振り返った。
美智姫は青い視線を朱狼に向けて、言い放った。

「あたしの血は通常の周期から外れて発現した。
そしてこの場に、例外的な能力を発現する人間が二人もいる。
偶然じゃない気がするの。
その子とあたしに、何か関係があるような、そんな予感がある」

そして美智姫は歩き出した。
朱狼は驚いて、美智姫の腕を握った。

「危険です、美智姫様」

そこで朱狼は気づいた。
美智姫の体が、発熱していた。
美智姫は振り返った。
白いひたいに、汗が浮かんでいた。
つやめく瞳を朱狼に向けて、美智姫は言いしめた。

「この体調不良が大妖怪のしわざなら、あたしの予感の裏づけになるでしょう。
連れて行って、朱狼」

朱狼は美智姫をとどめさせようとした。
そこに千夜がやってきた。
朱狼は千夜に呼びかけた。

「蒼鱗を呼んでくれ。
美智姫様は熱がある」

千夜はそれに答えずに、表情を変えずに二人に告げた。

「干渉の相手からの通信を通達します。
『あなたたちの仲間三人は、すでに胃袋に収めた』と」

朱狼は赤い瞳を千夜に向けた。
雨は音もなく、灰色の空に降り渡っていた。



四方を氷に覆われた洞穴で、少女はたたずんでいた。
足首まで届くような長い髪は金色に輝いて、細い体は白いぼろ布をまとうだけだった。
細められた目には、緑色の瞳がはめられていた。
その姿を、妖力を吸った氷が行灯(あんどん)のように照らしていた。

少女はかすれた声で、さらさらとつぶやいた。

「普通の人間は、妖力を封妖酒などから取り込まないと、妖術を使えない。
そして妖力を供給しても、一人の人間が扱える妖術は、三種類が限度だって言われている。
だから人間は、封妖石や封妖符を使って、自分では扱えない妖術を使う。
でもね、道具に頼らずに扱える妖術は、とっても大事。
血のつながりがある人間は、似た妖術を使えることが多いから」

少女は瞳を、真っ正面に見すえた。
曇りのない瞳を向けて、少女はただ要求した。

「教えて、あなたの名前。
もっと言うなら、血の名前。
私は、私がどうして生まれてきたのか知りたいの。
同じ魂を操る力を持つあなたなら、私の源泉が分かるかもしれないから。
だから教えて。
あなたのその血が、なんて名前を持ってるか」

少女の眼前で、白納仁は衣の腹を血に染めていた。









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