青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第一三話 名のみ遺す

静けさを取り戻した氷の洞窟を、朱狼はとうとうと歩み進んだ。
少女は氷の上に仰向けで倒れて、目を開いたまま放心していた。
少女の一歩手前まで歩み寄った朱狼は、少女を見下ろしながら言った。

「これ以上、戦うだけの妖力は残っていないようだな。
こいつも、おまえも」

朱狼は言いながら後ろを振り向いた。
李乃は朱狼の視線に射られて、てへっと舌を出した。
朱狼は鼻を鳴らした。
彼らのいる場所に、白納仁と一夜が登ってきた。

「朱狼、一人か。
美智姫様はどうした」

白納仁に言われて、朱狼はうなずきながら返した。

「そう、その美智姫様だ。
早めにここを離れた方がいい。
大妖怪の干渉が強まっているらしい、長居をすると美智姫様の体が」

そのとき朱狼の全身に、鳥肌が立った。
白納仁たちはその様子を目で見た後、彼ら自身もその気配を肌で知覚した。
白納仁たちは振り返った。
その瞬間、氷の壁が崩壊した。

そこには、美智姫がいた。
衣は赤くあでやかにきらめいて、瞳は青くらんらんと輝いて。
そしてひたいには、一本の長い角が生えていた。

朱狼は声を上げた。

「暴走だ!」

美智姫の妖力が急激に高まった。
朱狼と白納仁は、とっさに回避の行動をとった。
朱狼は紫桜丸で封妖酒の妖力を取り込み、白納仁は李乃に残り少ない封妖酒を投げ渡した。
美智姫から、妖力の塊が吐き出された。
朱狼と少女、李乃と白納仁と一夜とが、爆発と電撃で左右に飛び退いた。
妖力の塊は氷の床にぶち当たると、音もなくその氷を砂に変えた。

朱狼は少女を肩にかつぎながら、氷の壁に飛びついた。
朱狼の両腕は、至近距離で美智姫の妖力を知覚したために小刻みに震えてこわばっていた。
氷の壁を、阿牙鳴がカラクリを利用して駆けてきた。
朱狼は声を張った。

「なぜ美智姫様を連れてきた!」

阿牙鳴は冷や汗を流しながら謝った。

「すいやせん、あっしらの力ではとても抑えることができなくて」

そのとき少女が、朱狼の衣を強く握りしめた。
朱狼は少女の視線を追った。
美智姫が、狙いを完全にこちらに向けていた。
朱狼は退避しようとした。
それすら間に合わず、妖力の鋭打が朱狼の腹をしたたかに叩いた。

「う、あ」

朱狼は胃液をまきながらはじき飛んだ。
その手からすり抜けた少女の体が、真下の氷に落下した。
少女は身を起こして、そして戦慄した。
少女の視線の先で、美智姫は青い視線を少女だけに向けていた。
少女と美智姫の間に白納仁が割り込んで、息を切らせながら阿牙鳴に呼びかけた。

「封妖酒をよこせ!」

放心していた阿牙鳴は我に返ってひょうたんを投げた。
白納仁は懐から封妖符を取り出しながら、それを受け取った。
美智姫は妖力を打ち出した。
護封壁の封妖符は、その発動が間に合わなかった。
白納仁に妖力がぶつかった。
大柄な体が、少女のはるか後方まで吹き飛んだ。
封妖酒のひょうたんが、少女の近くに落ちて転がった。
白納仁は身を押さえながら、苦痛に顔をゆがめた。
妖術除けの衣に守られていない両手から、妖力が浸透していた。
白納仁は、両腕から石に変わっていった。

「う、がああああ!」

悲鳴を上げる白納仁に、李乃は呼びかけながら近寄ろうとした。
その足ががくりと折れて、李乃はその場に倒れた。
第一撃の被弾地点から氷はどんどん砂に変わっていて、李乃はその砂に足を取られていた。
砂に取られた足は、そこから石に変わっていた。
李乃の背後で、一夜が侵食されていく足場をなすすべもなく後退していた。

李乃は美智姫に声を張った。

「やめて、美智姫様」

美智姫は、その言葉に反応しなかった。
うつろなのにぎらぎらと輝く瞳を、ただまっすぐに少女に向けていた。
少女は息をすることもできなかった。
恐怖と威圧に押し潰されて、ただ涙を流して震えることしかできなかった。
李乃はもう一度声を張った。

「もうやめて、美智姫様。
殺さないで、誰一人殺さないで」

李乃の瞳が、一瞬ぶれるように震えた。
美智姫は何も反応しなかった。
李乃は無意識のうちに、歯をむいていた。
その身を不自然に震わせながら、李乃は噛みつくように声を出した。

「やめてって、言ってるの、美智姫様。
あたしの大切な人たち、誰も、傷つけたくないから」

首まで石に変わっていた白納仁が、李乃に向けて声をしぼり出した。

「いかん李乃、その妖力を使っては!」

李乃のひたいを中心に、異様な妖力が発生した。
急激な妖力の高まりに、洞窟全体がわなわなと振動した。
吐き気をもよおすような硬い空気の中で、李乃だけがその肺から言葉を吐き出した。

そのとき赤い影が、美智姫の横をすり抜けた。

赤い髪を軌跡のように流して、朱狼は美智姫の背後で立ち止まった。
振り抜かれた紫桜丸から、ひとすじの血が流れていた。
美智姫の胴は、切られていた。
妖力を急激に引き抜かれて、美智姫は光を失ってくらりと倒れた。
その体が床にぶつかる寸前に、朱狼は美智姫の体を支えた。

朱狼の腕の中で、美智姫はゆっくりと視線を上げた。
ひたいの角は、溶けてなくなっていた。
垂れ下がる赤い髪に顔をくすぐられながら、美智姫は謝った。

「ごめんね、朱狼」

朱狼は美智姫をかかえて、乱れた髪を直すこともなく返した。

「謝ることなど、何もありません」

美智姫は弱く微笑んで、青い視線を向けながら訴えた。

「なら、あたしの前で泣かないで」

朱狼は何も動かずに、答えた。

「泣いてなど、いません」

美智姫は息を吐いた。
それから、弱った体を起こそうとした。

「白納仁たちを、元に戻さなきゃ」

朱狼は美智姫を寝かせながら、言った。

「オレがやります。
美智姫様は、休んでいてください。
オレに泣いて欲しくないと、本心で思うのなら」

朱狼は立ち上がった。
そうして歩き出そうとすると、両肩に背中から手を置かれた。
褐色の肌のその手は、蒼鱗だった。

「朱狼さんも、休んでください。
大過剰の妖力を吸って、ただでは済まないはずでしょう」

朱狼は振り向いた。
蒼鱗に見せたその瞳は、血の涙を流していた。
朱狼は微笑んで、皮肉を言った。

「全部終わってから、しゃしゃり出てんじゃねえよ」

朱狼の瞳が、ふっとうつろになった。
次の瞬間、朱狼は耳や口から血を流しながら意識を失った。
倒れかけた朱狼の体を、蒼鱗は受け止めた。
蒼鱗は金の瞳で朱狼を見下ろしながら、その体を優しく抱きかかえた。
朱狼から妖力が流れ出て、石に変わった者たちを、少しずつほぐしていった。

李乃はその様子を、ずっと見ていた。
それから不意に、涙を流した。
泣き崩れる李乃を、無骨な腕が抱え上げた。
岩砲の腕の中で、李乃はさめざめと言葉をこぼした。

「岩ちゃん、あたし、また助けられなかった。
前と同じ、なんにも、変わってないよお」

岩砲はただ、李乃を強く抱きしめた。
彼らの後方で、千夜と一夜が身を寄せ合って沈黙していた。

彼らの中間を、一本の矢が通り過ぎた。

意識のある者全員が、はっと顔を上げた。
彼らの視線の先には、目を見開いた少女の姿があった。
少女の細い手が押さえる胸に、矢は突き刺さっていた。

李乃は悲鳴を上げた。
矢の飛んできた方向に、落ちくぼんだ瞳の老人が立っていた。
李乃は岩砲の腕をすり抜けて、その老人に飛びかかろうとした。
そのとき少女が、声を張った。

「大丈夫、刺さってない。
氷を、おじいさんの落とした封妖酒で、作って守ったから」

洞窟の中に、吹雪が巻き起こった。
少女は氷の羽を作って、空中に舞い上がった。
李乃は風にたなびく髪を押さえながら、少女を見上げて声を張った。

「待って。
どこかへ行くなら、名前を教えて。
またどこかで、あなたともう一度会って話がしたいから」

少女は、緑の瞳で李乃を見下ろした。
金の髪をはためかせながら、少女はさらさらと言葉をこぼした。

「蒲公英(タンポポ)。
それが、あたしの名前。
お母さんとお父さんがくれたもので、たったひとつだけ、あたしの手元に残ってるもの」

吹雪が強く吹き上がった。
少女は上昇して、洞窟の天井を打ち破った。
少女はそのまま飛び立って、遠い空へと消えていった。

老人が、どさりとひざを落とした。
落ちくぼんだ瞳から涙を流して、壊れたように言葉をこぼした。

「集落の人間は、オレを除いてみんなあいつに殺されちまった。
オレはただ、あいつを仕留めることだけを考えて生きていた。
これからオレは、どう生きればいい。
たった一人でオレは、なんのために生きればいいんだ」

老人の問いに、誰も答えなかった。
洞窟は静かに、沈黙していた。
李乃はとうに去った少女の幻影を見つめて、ただぽろぽろと涙をこぼした。

小糠雨はすでにやんで、太陽も沈んでいた。
薄くなった雲の向こうで、三日月がかかげられていた。









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