青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第一四話 そして夜は更け

朽ちた山小屋の格子窓から、小望月(こもちづき)がのぞいていた。
月明かりはまっすぐに伸びて、腐りかけた木の寝台を照らしていた。
その寝台に、美智姫は寝そべっていた。
美智姫はその体に、何ひとつ布をまとっていなかった。
月の光はぬめるように、美智姫の白い肌を覆っていた。

右腕をひたいに置いて、美智姫はのそりと声を発した。

「お腹の傷を診せるだけなのに、全裸になる必要はなかったんじゃないかしら」

薬を調合していた蒼鱗は、にっこりと笑顔を見せた。

「衣が汚れるといけませんから、念のためですよ」

美智姫は鼻でため息をついて、別に裸を見られるのは構わないんだけどと一人ごちた。
蒼鱗は薬を泥状に調製して、脇腹の刀傷に塗っていった。
処置をしながら、蒼鱗は美智姫に問いかけた。

「すぐ近くに、同じような傷跡がありますね。
これは」

美智姫は腕をひたいに当てたまま答えた。

「今回と同じ。
一回目の暴走のときも、朱狼に止めてもらったの」

蒼鱗は、顔を上げて尋ねた。

「その暴走というのは、何の暴走ですか」

美智姫はちらりと視線をやって、それから窓の外を見ながら答えた。

「青玉の血の。
強力な力ゆえに、発現者はその妖力を制御できなくなることがたびたびあったって聞いてる。
精神まで喪失したのは、あたしが初めてらしいけどね」

蒼鱗は押し黙った。
難しい表情で顔を落として、とりあえず手元だけは処置を続けた。
その様子を、美智姫は目だけ向けてうかがった。
薬を塗り終え、傷口に綿紗(めんしゃ)が当てられたとき、美智姫は口を開いた。

「あたしが魅力的だからって、変な気は起こさないでね」

蒼鱗は、面食らったように顔を上げた。
それから笑みを見せて、綿紗を固定しながら返した。

「いきなり、何を言い出すんですか。
いくら、私が好色といえども、一国の姫に手を出したりはしませんよ」

美智姫は、上半身を起こした。
長い黒髪が顔の中央にかかるのも構わずに、美智姫は青い瞳を蒼鱗に向けた。
美智姫の白い指が、蒼鱗の褐色の手に置かれた。
蒼鱗の鼻先に顔を近づけて、美智姫はささやいた。

「手を出さなくても、手にかけるかもしれないでしょう」

美智姫の指が、蒼鱗のそでに仕込まれた何かを引っ張り出した。
それは刃物だった。
蒼鱗は張りついた笑みを見せて、弁解するように答えた。

「それは、外科処置に使う小刀ですよ。
どんな状況でもすぐに処置ができるように、常に携帯しているんです」

美智姫は、青い瞳で蒼鱗を見つめた。
それから彼の手を握って、誘うように問いかけた。

「どんな状況でもって、こんな状況のことかしら?」

小刀を握らせて、美智姫は彼の手を自身ののど元に持ってきた。
蒼鱗はぎくりとした。
彼の手に収められた小刀は、少し力を入れれば簡単に美智姫ののどを切れる位置にあった。
青い瞳で見つめ続ける美智姫に、蒼鱗は笑顔を保ったまま呼びかけた。

「冗談はやめてください、美智姫様」

美智姫は動かずに、蒼鱗に返した。

「冗談で終わるかどうかは、あなたが決めればいい」

美智姫の手は、ただ添えられているだけだった。
小刀を握った蒼鱗の手は、奇妙に力がこもって小刻みに震えていた。
蒼鱗は、心の読めない笑顔で硬直していた。
月の光が、美智姫の輪郭だけを奇妙に強調して照らし出していた。

美智姫が、ふっと視線を下ろした。
蒼鱗の手を下ろさせながら、美智姫は言った。

「やめましょうか、こんなざれごと」

蒼鱗は、安堵したように緊張を崩した。
そのとき美智姫の両腕が、蒼鱗の首筋にからみついた。
まばたきのまつ毛で蒼鱗のほおをなでながら、美智姫は語りかけた。

「あたしは、あなたを信じてるから。
だから絶対に、間違いを犯さないで。
選択を迫られたときに、間違った道を選ばないで」

それから美智姫は、蒼鱗から離れながら言った。

「とりあえず、服を着ていいかしら。
さすがにこの季節でこの格好は、寒い」



山小屋は、むしろ山荘ともいえるほど広かった。
蒼鱗は格子窓の並んだ廊下を、ゆっくりと歩いていった。
歩くたびに、月の光は蒼鱗の体を暗く明るく染め替えていった。

蒼鱗は、立ち止まって窓の外を見上げた。
彼の左手は、腰に提げた刀に置かれていた。
彼の聴覚に、響くような声が届いた。

(殺せばよかったものを)

蒼鱗は、ふっと鼻で笑ってみせた。
左手で刀のつかをなでながら、蒼鱗は声に返した。

「殺して、どうなるというんです。
何を得られるわけでもなく、大妖怪が大陸を滅ぼすだけでしょう」

耳の奥で、声はくつくつと笑った。
わずかに顔をしかめた蒼鱗に、声はささやいた。

(得られる。
オレの力を使えば、青玉の力を奪うことができる。
大妖怪も復活しない)

さげすんだ瞳を、蒼鱗は自身の心に向けた。
おろかな妄想をうそぶくなと、声に向かってたしなめた。
声はなおも、くつくつと笑った。

(妄想などではない。
青玉の力を奪い、大妖怪の力を我がものとする。
そうすれば、オレとおまえはこの大陸の覇者になれるのだ)

蒼鱗は、視線をふっと鋭くした。
自分自身で確かめるように、蒼鱗はゆっくりと尋ねた。

「青玉の力を得ると、大妖怪の力を支配できるということですか」

(大妖怪は)

声は、不意に押し黙った。
蒼鱗はふと、廊下の向こうに視線をやった。
こうこうと射し込む月の光に、赤い双眸(そうぼう)が浮かび上がった。
その姿が一歩歩み寄ると、長い赤髪が月光の下できらりと流れた。
それは、朱狼だった。
朱狼は紫桜丸を、抜き身で構えていた。
射抜くような視線で蒼鱗をにらみながら、朱狼は喋った。

「美智姫様は手を出すなと言われたが、やはり放っておくわけにはいかないらしいな。
じっとしていろ、蒼鱗。
痛みは、一瞬で済む」

蒼鱗は、金の瞳をねじ曲げて笑みを作った。
震えるくちびるで、蒼鱗は言葉を返した。

「よしてください、朱狼さん。
紫桜丸なんて構えて、物騒じゃないですか」

朱狼は視線を曲げずに、言葉を続けた。

「そう言うおまえの手も、刀に伸びてるぞ」

蒼鱗はにやりと、くちびるをゆがませた。
刀は抜かれて、白い刃がぎらりと月光をはね返した。
紫桜丸を構え直しながら、朱狼は呼びかけた。

「ヘタな抵抗はするな、蒼鱗。
オレはおまえと戦いたくはない。
できれば、殺したくもない」

蒼鱗は、のどの奥で笑い声を発した。
刀と自身とを斜に構えながら、蒼鱗は言葉を振りかけた。

「抵抗をするなって、そういうのをですね、無茶な要求と言うのですよ、朱狼さん。
だってあなた、私をまるで危険人物みたいに、そういう目でもって排除しようとしているでしょう。
受け入れられるわけがないですよ、正常なのに、私は全然、何も問題ないのに。
正常だから、私は正当防衛で刀を抜いて、何が問題がありますか」

朱狼は、あわれむような視線を混じらせた。
それからすぐに瞳を引きしめると、紫桜丸をまっすぐに構えた。
蒼鱗も朱狼を見すえて、刀を突き出すように構えた。
両者が、臨戦態勢に入った。

二人は同時に動いた。
蒼鱗の小手切りをすり抜けて、朱狼は蒼鱗の胴をなぎつけた。
蒼鱗の胴から、血が散った。
その血に沿って、紫桜丸に吸われた一本の妖が引きずり出された。
朱狼はそれを左手で握った。
それは深海魚のような形状をした、妖怪だった。
赤い眼光を向けながら、朱狼は言葉を吐いた。

「人の精神に憑依して、干渉するタイプの妖怪だ。
オレも実際に見るのは初めてだがな」

朱狼は、妖怪を放った。
妖怪は朱狼に牙をむくより早く、紫桜丸に断ち切られてかき消えた。
朱狼は蒼鱗に顔を向けて、なじった。

「なぜ黙っていた。
ヘタをすれば、おまえだけでなく周りの人間にも危害が及ぶのに」

蒼鱗は、刀を落として窓に背中をついた。
月明かりを背中に浴びながら、蒼鱗は笑って言った。

「どこまで抵抗できるか、自分の力を試したかったんです。
ギリギリのところまで来たら、適当な薬を飲むつもりでした」

朱狼ははんと鼻を鳴らして、無茶はするなと言った。
蒼鱗は微笑んで、そちらこそ無理をなさらないようにと返した。
朱狼はもう一度鼻を鳴らして、口中に溜まった血塊を吐き捨てた。
それから蒼鱗の落とした刀を拾って、まじまじと見つめながらこぼした。

「変わった刀だな」

蒼鱗の刀は、刀身全体に細かな彫刻がほどこされていた。
蒼鱗はふっと笑って、少しほこらしげに言った。

「特注品です。
私の剣術に合わせて、作ってもらったんですよ」

それから、蒼鱗は刀を鞘に収めた。
二人はそろって、廊下の向こうへ歩いていった。
小望月は、静かに空にたたずんでいた。









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