青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第二一話 迷い刺し

達國はにいいと、氷のような微笑を浮かべて朱狼の顔をながめた。
すでに炎の消えた林は、月と星だけが照らす墨色の世界へと変わっていた。
阿牙鳴は朱狼の顔をうかがった。
このとき朱狼は、冷静だった。
冷静だったからこそ、達國の言った言葉を慎重に吟味し、
そしてその内容が事実である可能性否定できずという結論に達していた。
達してしまったゆえに、朱狼の動きは止まっていた。

達國は口角をつり上げた。

「戦いはまだまだ続くぜェ?」

阿牙鳴ははっとして、朱狼の体をかかえ込んだ。
達國は水晶眼を銀に変えた。
水晶眼の視線に射られて、林の木々も枯れ葉も大地もすべて液体へと変わっていった。
阿牙鳴は朱狼をかかえて、まだ溶けていない木々を盾にして逃げ回った。
肩が溶け、足が溶け、背中のカラクリが溶かされて、中からカラクリ人形の足がこぼれた。
達國は追いかけながら、嬉々として声を上げた。

「逃げてばかりじゃ勝てねえぜ!」

達國は液状の地面を踏み荒らして、右往左往する阿牙鳴を追った。
そのとき不意に達國は、足元に何かが浮いているのに気づいた。
それは封妖石だった。
達國は考えるより早く、水晶眼を紫に切り替えていた。
封妖石は妖術を発動する寸前に、妖力を吸われて不発に終わった。
そのとき地面も同時に妖力を失って、液状だった地面は固体に変わって達國の足を封じ込めた。

達國は顔を上げた。
爆発の妖術を蹴って、朱狼が赤い瞳孔を向けて跳びかかってきた。
達國は刀を抜いて、間一髪の距離で紫桜丸と切り結んだ。
水晶眼の視線を受けて紫桜丸は色を失い、それを確認して達國は水晶眼を銀に変えた。
紫桜丸と朱狼の顔面が溶けた。
朱狼は退きながら、左手で顔面を押さえた。
その顔面をまるで泥でも落とすかのようにぬぐうと、朱狼はその液体を達國目がけて放り投げた。
液状の皮膚は達國の顔に当たって、目潰しのように達國は一瞬ひるんだ。
朱狼は薬草を噛んで、紫桜丸の妖力を回復させた。
表面が溶けてひと回り細った紫桜丸を、朱狼はちゅうちょなく達國に突き出した。
達國は封妖符を発動した。

「転移符ッ!」

達國は転移して、がけ上の回廊に着地した。
達國はそこから、銀の水晶眼を朱狼に向けた。
銀の妖力が、しのつく雨のように朱狼と地面をうがった。
その妖力は朱狼を深くえぐる前に、阿牙鳴の放った煙幕弾でさえぎられた。
阿牙鳴は朱狼に駆け寄って、声をかけた。

「朱狼さん、大丈夫なんすか」

朱狼は、地面に手をついてうつむいていた。
鎮痛薬の副作用が来ていた。
体がくらりと傾いて、朱狼はこらえきれずに嘔吐した。
血の混じった吐瀉物が、地面をはね、もはやぼろきれ同然の衣を汚した。
穴の開いた左肩は動かすたびに血を吐き出し、石柱にやられたらしい肋骨は呼吸のたびにきしんだ。
朱狼は吐くだけ吐いて、皮のはがれた手で皮のはがれた顔をぬぐってから答えた。

「達國様の言ったことは、美智姫様に直接聞けばいい。
今はただ、達國様を止めることだけ考える」

煙幕が足りなくなって、阿牙鳴は最後の煙幕弾を撃ち出した。
朱狼は手のひら一杯の薬をほおばった。
突き刺す痛みを止めるために鎮痛剤を飲み、もよおす吐き気を止めるために制吐剤を飲み、
かすれる意識を保つために気つけ薬を飲み下した。
朱狼はそれから、阿牙鳴に要求した。

「阿牙鳴、もう封妖酒がないんだ。
おまえの分、分けてくれないか」

阿牙鳴はひょうたんを差し出した。
朱狼はそれを受け取って、空のひょうたんと交換して腰にたずさえた。
紫桜丸を持ち直して、朱狼は言った。

「次の攻防で達國様を止められなければ、もうオレの体がもたない。
ありったけの力で、必ず成功させるぞ」

朱狼は紫桜丸を地面に走らせた。
溶けた地面から妖力を吸って、朱狼は体に妖力をたくわえた。

達國は煙幕に向かって水晶眼を向け続けていた。
そのとき煙幕の一端から、何かが飛び出した。
達國はそちらに目を向けた。
阿牙鳴が朱狼をかかえて、がけの壁面を駆け上がっていた。
足には壁走りのカラクリを装着し、身体強化の封妖符も使用していた。
達國はまず身体強化を解除しようと、水晶眼を紫に変えた。
阿牙鳴はそのタイミングを見計らって、朱狼を上方に放り投げ、爆弾を起爆した。
爆発による閃光が達國の目をくらますとともに、朱狼は上へ、阿牙鳴は下へ吹き飛ばされた。
達國は目をしばたかせてから、回廊に視線を向けた。
爆風に黒く染まった朱狼が、血の軌跡を描きながら赤い眼光とともに回廊に着地した。

朱狼と達國が、同時に封妖石を発動した。
激しい炎がぶつかり合って、押し合って広がって互いの姿を隠した。
達國は距離を置きながら、次の封妖石を握った。
そのとき炎の壁が、さっとかき消えた。
朱狼が紫桜丸を走らせて、炎から妖力を吸い取っていた。
達國は周囲に気をめぐらせた。
朱狼はすでに分身符(ブンシンフ)を使用して、達國の四方に自身の分身を散らしていた。
達國は舌打ちした。
すべての分身に水晶眼を向ける時間はない。
分身の紫桜丸に妖力を吸い取る力はないが、切られてダメージを受けるのは避けたい。
そう思って封妖符を発動する瞬間、朱狼の声が届いた。

「やっぱり臆病だな、達國さん」

「なに?」

達國は転移して、朱狼と分身の上方に移動した。
紫の水晶眼に妖力を吸われて、分身はすべて消滅し、炎から吸った朱狼の妖力も消えた。
それで達國が封妖石を投げようとしたとき、炸裂弾が飛んできて達國の至近距離ではぜた。
それは地上の阿牙鳴からの援護だった。
予測していない攻撃を受けた達國は横方向に吹き飛ばされて、回廊に落ちて転がった。
視線を上げた達國に、朱狼は紫桜丸を向けて走り込んでいた。
達國は転がって退避し、紫桜丸は木の板を叩いた。
その叩く音とともに、また朱狼の声が届いた。

「みじめだな、達國さん」

「ああ?」

達國は素早く受け身を取ると、水晶眼を銀に変えた。
銀の視線は朱狼に向けられて、朱狼もがけも回廊も何もかもを溶かそうと牙をむいた。
朱狼は、退かなかった。
左腕を盾にして、構うことなく達國へ突進した。
朱狼はこのとき、紫桜丸を左腕に突き刺していた。
血を散らしながらも溶ける腕を溶けるそばから固め、
流れる液体の血はすべてを液体に変えるその視線から肉体を防御していた。
達國はぞっとして、後退して横穴へ逃げ込んだ。
達國は焦燥していた。
軽症とはいえ不意をつかれてやけどを負い、能力的には格下であるはずの朱狼に追い立てられ、
臆病者と揶揄され、なお逃げている自分に焦燥していた。
朱狼が横穴に飛び込んできた。
達國はふるい立たせるように咆哮した。

「オレを、ナメるな!」

達國はありったけの封妖石をばらまいた。
一〇個近い封妖石が一斉に起動し、狭い横穴で炎を上げ稲妻を放ち爆発を巻き起こした。
達國は白く飛ぶ視界にもまれながら、臨戦態勢をとった。
朱狼がすでに衣に妖力を戻し紫にしていたのを、達國は確認していた。
達國は気配を感じて、後ろを振り向いた。
背後を狙う朱狼が分身符だと、達國は精確に予測していた。
紫の水晶眼に射られて、朱狼の分身は立ち消えた。
達國は口角をつり上げて、横穴の出口方向に向き直った。

「本物は、こっちだ!」

抜いた達國の刀が、そこにいた対象のひたいに打ちつけられた。

それは、カラクリ人形だった。

達國は目を見開いた。
カラクリ人形は刀に叩かれて、顔面がひび割れた。
達國は再び振り向いて、背後から来ていた朱狼とギリギリ打ち合った。
気づいたときにはもう、刀が打ち合っていた。
朱狼は水晶眼に射られて消滅した。
すなわちこれも、分身だった。

すでに間に合わないタイミングで、達國は後ろを見た。
ひび割れて欠けた人形の顔のすき間から、朱狼の赤い眼光がのぞいていた。
紫桜丸はもう、体をどう動かしても回避できない距離に振り抜かれていた。
達國はこのとき、二枚の封妖符を隠し持っていた。
そのどちらを発動するかを刹那迷って、一枚を発動した。

「護(ゴ)」

護封壁が展開して、紫桜丸を寸前のところで押しとどめてギチギチとわなないた。
朱狼は紫桜丸を押しつけながら、言葉を吐いた。

「よかった、立ち止まってくれて。
あんたはオレの挑発に揺らいだから、逃げる転移符か立ち止まる護封壁かで迷ってくれた。
立ち止まってくれたなら、オレはこの壁、自分の信念を乗せて突き通すだけだ!」

紫桜丸の柄に、身体強化の封妖符が巻かれていた。
強化された紫桜丸は、護封壁を押し破った。
壁の割れる音が、奇妙に遠く響いた。
達國の表情を確認する間もないまま、朱狼は達國にひと太刀を浴びせた。

膨大な妖力が、朱狼に流れ込んだ。
朱狼は歯を食いしばりながら、妖力を爆発の妖術に変えて背中から吐き出した。
無限のような妖力の奔流に流されて、達國の傷口から妖怪が流れ出た。
朱狼は雄叫びを上げて、気合い一閃妖怪を切り払った。
それでナメクジの妖怪は消滅して、戦いの決着はついた。

朱狼はどさりと、両ひざを地面に落とした。
戦いの終わった横穴は、恐ろしいほどの暗闇と静けさに満ちていた。
朱狼は、紫桜丸を地面に突いた。
倒れそうになる体を、なんとか紫桜丸を杖代わりに持ち直した。
朱狼は息を荒げながら、震える体を立たせようとした。

「まだ、気を失うわけには、いかない。
真実を、事実を確認しなければ」

揺れるひざで、朱狼は体を持ち上げた。
その爪先がずるりと滑って、朱狼の片ひざは地面に吸い戻された。
全身の力が抜けるのを自覚しながら、朱狼は遠くに呼びかけた。

「美智、姫、様。
どうかオレに、信じる心を」

うつぶせにのびる達國の横に、朱狼は倒れた。









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