青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第二八話 雷の牙は闇を穿ち

「う」

うめき声をひとつ上げて、朱狼は立ち上がった。
破壊された骨は、すべて治癒していた。
朱狼が前を向いたときに見えたのは、カニのはさみに突かれて李乃の胴に穴が開く瞬間だった。
その傷はすぐに、跡形もなく修復された。
李乃のひたいに裂け目が生じ、第二の妖術が発動されていた。

腕を修復された岩砲が、李乃に大声で呼びかけた。
李乃は返事を返さなかった。
このときカニは、透明化の妖術を解いていた。
まとっていた泥は流れ落ち、代わりに漆器のようなつややかな黒色の甲殻が現れていた。
暗闇のようなカニの視線は、ずっと李乃に向けられていた。

朱狼は紫桜丸を振り上げて飛びかかった。
カニの透明化が解除されたのは、
別の妖術を使うために透明化へ妖力を回せないからだと朱狼は予測していた。
岩砲も封妖酒を飲んで妖力をたくわえ、カニの背中へこぶしを振り上げた。

そのときカニの甲羅に、毛虫のような体毛が出現した。
朱狼の視線からは、飛びかかろうとした黒曜石の塊がさながら針山の壁に化けたように見えた。
それは一本一本が鋭くとがった、毒針だった。
踏みとどまってから回避へと動作する間もなく、毒針は散弾のように発射された。

「岩ちゃん、隊長さん!」

李乃は悲鳴を上げた。
朱狼と岩砲の全身に、菜箸ほどの長い毒針が何本も撃ち込まれていた。
李乃から妖力が放出されて、二人の傷は即座に治された。
朱狼は李乃に、第二の妖術を乱発するなと叫んだ。
言いながら、そうせざるを得ない状態にいらついた。
距離が離れているとはいえ、
美智姫にどんな影響が出るか分からない以上第二の妖術は使わせたくなかった。

カニがはさみを振り、李乃の腕をはさんだ。
腕がねじり上げられ、李乃の口から苦痛の叫びが漏れた。
朱狼はカニに紫桜丸を振り下ろした。
ガキンと硬い音がして、紫桜丸は甲羅に傷ひとつつけられずに停止した。
霧や雷からも妖力を奪う紫桜丸でも、刃が通らない相手には無力だった。
岩砲が李乃に飛びついて、カニのはさみから強引に体を引き離した。
腕が切れてはさみの中に残ったが、すぐに治癒の妖術で李乃のもとに戻った。

岩砲は李乃を腕にかかえ、朱狼とともに走った。
李乃の体からは、感知能力に長けるわけでもない岩砲ですら
半ば視覚化して感じるほどの妖力があふれていた。
一度退こうと朱狼が指示し、そのとき李乃が涙を流しながら訴えた。

「どうしよう、ふたつ目の妖力、止まらない。
雷も出なくなって、妖力の流れが完全におかしくなっちゃった」

朱狼は李乃の顔を見た。
暴走。
その単語が頭に浮かんだとき、李乃の姿に否応なく美智姫の姿が重なった。
際限なく妖力を放出し、理性なくただ破壊を尽くす暴走状態の美智姫。
でも、それは大妖怪の力によるもので。

背中に威圧を感じて、朱狼は振り返った。
上方に、カニの巨大な影が浮遊していた。
考える間もなく、朱狼は岩砲らとともに真横へ跳んだ。
漆黒の巨躯(きょく)は落石のように落下し、衝撃で三人を吹き飛ばした。
一瞬のすり傷とともにいち早く受け身を取った朱狼はカニと岩砲たちの間に入り、
カニはふわりと空中浮遊して朱狼たちの方へ向き直った。
紫桜丸を構え、じりっと後ずさった朱狼に対し、
地に足をつけたカニはにわかに妖力を高めると、その口から火球が発射された。

――こいつ、いくつの妖術を使えるんだ!

朱狼はのけぞりながら紫桜丸を振った。
直撃する寸前で火球に切りつけ、その妖力を奪い取った。
カニの目が、正体不明の暗黒の眼光を見せた。

カニは現在把握しただけで、透明化、毒針、浮遊、火炎放射と四つの妖術を操っていた。
異常だった。
数が多すぎた。
朱狼は一度退避しようと、転移符を取り出して岩砲の肩をつかんだ。
そのときカニは、口から白い物体を噴射した。
回避できずに朱狼はその白い物体にからめ取られて、岩砲たちともども身動きが取れなくなった。
朱狼の過去の経験に、これと同じ感触があった。
これはクモの糸だった。
そしてそれが分かると同時に、カニの妖術の本質が朱狼には見えた。

カニがはさみを突き出した。
身動きの取れない朱狼は、なすすべなくそのはさみに胴体をつらぬかれた。
李乃が悲鳴を上げて、しかし一秒ののちには傷は治癒した。
カニは何度もはさみを振った。
朱狼と岩砲ははさみにつらぬかれ切り刻まれ、そのたびに李乃の妖力で再生された。
転移符を持った朱狼の左手が突き刺され、転移符は飛ばされて朱狼たちのもとを離れた。
指の四本も同時に吹っ飛んだが、それはすぐに返ってきた。

李乃は気が狂いそうだった。
いとおしい人間を眼前で幾度となく破壊され、それはすぐに修繕し、また破壊される。
岩砲の体が覆いかぶさって李乃に攻撃が届かないのも、また李乃の心を苦しめた。
目の前にあった岩砲の頭が破壊されて、また一瞬で元に戻った。
再生する刹那、李乃は頭蓋の中身をかいま見た。
胃液を吐くより先に、血へどでも吐いてしまいたい感覚だった。
吐く代わりに、李乃は願った。

――電撃を。
  今は治癒の力では、仲間たちを救えない。
  救いのない優しさよりも、今は破壊する牙が欲しい!

岩砲は李乃を見た。
李乃の口が動いて、岩砲は李乃の要求を聞き取った。
カニのはさみが振られ、一度岩砲の頭が飛んでからまた舞い戻った。
岩砲は李乃の頭に顔を寄せ、ついていた髪飾りのひとつを口で抜き取った。
漆黒のはさみが舞い、朱狼の背中が切り裂かれ、それが治癒してカニが次の動作に移る瞬間、
李乃は頭突きのように頭を突き出してひたいの裂け目に髪飾りを突き刺した。

――李乃!

朱狼は叫んだ自覚があった。
岩砲は叫ばなかった。
何があっても口から髪飾りを放さないでと李乃に言われ、
また李乃を信用していたゆえに岩砲は沈黙した。
どちらにしろ、それは一瞬のできごとで、髪飾りが刺さった瞬間に李乃の妖力は輪をかけて混沌し、
朱狼も岩砲もカニさえもその妖力に翻弄されて動けなかった。

全員の視界が白濁し、クモの糸はぼそりと崩れて三人の体が解放された。
李乃は煙のように浮遊して、カニと向かい合った。
電撃が、復活していた。
髪飾りは、確実に脳髄まで届いている深さまで刺さっていた。
裂け目から血を流しながら、李乃はまっすぐに視線を向けて言葉を吐いた。

「あたしの大切な人たちには、鮮やかな光の射すあたたかい未来を歩んで欲しい。
その障害になるものは、すべてあたしが排除する。
この命すべて燃やして、ただ闇をうがつ牙になる!
おおおお雷牙闇穿(ライガアンセン)」

突き出した両手から、大出力の電撃が放出された。
視界が白く飛び、黒いカニの姿が白に飲まれた。
空気が、空気に満ちた妖が、土が木が森が、すべてが電撃の流れに敬服するように振動し整列した。

そしてカニは、電流を正面から突き破った。

白い流れを裂いて、漆黒のはさみは李乃の腹を打ち抜いた。
李乃の細い胴に穴が開き、背中ではさみの先が血をしたたらせた。
李乃の口から、血が流れた。
岩砲は眼前に李乃の横顔を見、李乃の眼球が動いて二人の視線が合った。
こと切れるまで、ほとんど時間はなかったはずだった。
だが岩砲は確かに、李乃の言葉を受け取っていた。

――ごめんなさい。今までありがとう。
  隊長さんを、みんなをよろしくね。

李乃の命は、そこで消失した。



白さが明けて、吹雪の森の暗がりが戻ってきた。
朱狼と岩砲の視界に、はさみを突き上げたカニと、そのはさみにまとわりついた李乃の死骸があった。

カニはゆるゆると、はさみを下げかけた。
朱狼はとっさに身体強化の封妖符を発動して、カニのはさみを駆け上がり、李乃の死骸を奪い取った。
カニがもう一方のはさみで攻撃をしかけたが、
岩砲が空中の朱狼の手を引いたため攻撃は空振りに終わった。
岩砲は李乃の死骸と朱狼とをかかえ、走って逃げた。
無骨な岩砲の指が李乃の首に当てられ、李乃が完全に死んでいるのを読み取った。
感情を抑えて、連れて行ってもしょうがないと岩砲が言うと、朱狼は青い顔を横に振った。

「李乃を置いて行っちゃダメだ。
理由がふたつある。
あのカニの妖怪は、他の妖怪や人間から妖術を奪って自分のものにするタイプだ。
異常な妖術の数、クモの糸。
気配はあれど見当たらない妖は、きっとあいつの食料になった。
どうやって妖術を奪うのかは定かでないが、李乃の体を置いて行くと李乃の力も奪われかねない」

空中を飛ぶカニが、岩砲の背中に追いついてきた。
岩砲は護封壁の封妖符に封妖酒をひたし、壁を作って時間をかせいだ。
岩砲の腕の中で、朱狼は言葉を続けた。

「さらにもうひとつの理由。
さっき李乃が電撃を撃ったとき、少しの間だが周辺の妖の気配が整然として感知ができたんだ。
いた。
蒲公英が、この森にいる」

後方で壁の割れる音がした。
岩砲は護封壁の封妖符にかたっぱしから封妖酒をかけ、壁を乱立させた。
朱狼は、震えていた。
震えながら、朱狼の言葉は続いた。

「蒲公英を見つけるんだ。
あいつの魂を操る力は、過去に死人をよみがえらせたことがあると聞いている。
その能力がどれほど強いか分からないから、体を守らなくちゃいけないし、
李乃の魂が遠くに行ってないであろう今のうちにやってもらわなきゃいけない。
蒲公英に会うんだ。
李乃を、死なせないために」

岩砲は、朱狼の体を抱きしめた。
助けたいと願うほどか細い体は、助けようと決意した白亜のようにもろい心をたずさえていた。









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