青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第二九話 滴る血は赫(あか)く赫(かがや)き

例えるなら、吹雪に背中をさらされて縮こまる亀の甲羅のような、
そんな様相を俯瞰(ふかん)の森は呈しているはずだった。

朱狼は森の一方向を指差した。
蒲公英を感知した方向はこっちだと、朱狼の口は伝えた。
岩砲は朱狼と李乃の体を強くかかえて、朱狼の示した方向へ走った。

カニは飛行して岩砲たちを追ってきた。
飛行速度は、岩砲の走力よりも速かった。
岩砲は護封壁を何度も発動し、木々の間をジグザグに進んでかく乱した。
護封壁はカニの怪力に対して時間稼ぎにしかならず、木々はともすれば、
障子紙のようにまっすぐに突破された。

カニが追いついてきて、はさみが水平に振られた。
開かれたはさみは、ギロチンを背負って滑空する猛禽のようだった。
岩砲はひじを突き出してそれを受けた。
ひじに下方を打たれたはさみは軌道を上にそらされ、岩砲の側頭部をかすめるだけに終わった。
もっともかすめただけにすんだのは岩砲が首自体を横に傾けたからであり、
その動作によって、岩砲の重心はかたよっていた。
つまり、足元が不安定になっていた。

カニの反対のはさみが、鋭く岩砲の足元を狙った。
岩砲は、跳躍した。
脚力のバネを極限まで使い、その体重からは想像がつかないほど軽快にカニの攻撃をすり抜けた。
岩砲の体は宙返りして、回避動作がそのままひざ蹴りの攻撃力に変わった。

「ずあっ!」

重いひざ蹴りが、カニの背中に叩きつけられた。
硬い甲羅を砕くほどの攻撃力はないが、宙に浮くカニの体は大きく沈んだ。
岩砲はそのまま身をひねり、カニの顔面に蹴りを放った。
カニの体が後ろに下がり、岩砲は反動で前進して距離が開いた。
カニは一度着地し、クモの糸を吐いた。
岩砲は、朱狼と李乃を手放していた。
その身に一度クモの糸を受け、素早く上衣を脱ぐことで、糸にしばられることを回避した。
筋骨隆々とした岩砲の肉体が、肌着にくっきりと浮いていた。

カニが再び、浮遊して岩砲たちを襲った。
岩砲は李乃の体を拾い、朱狼は封妖石に封妖酒を浸しながら、別々の方向に回避した。
二人の間を通り抜けたカニは、朱狼らに背中を見せた。

朱狼は風の封妖石を発動した。
竜巻がカニの体をしばろうと試みたが、カニにはいささか風力が弱すぎた。
カニは地面に片方のはさみを突き刺し、それを軸にして倒立回転蹴りを繰り出した。
大きな動作の攻撃は、朱狼にも岩砲にも届いた。
二人は蹴り飛ばされて、木の幹にぶつかった。
朱狼は衝撃で肺の中身を吐き出したが、倒れ込まずに戦闘の構えを維持した。

朱狼と岩砲は向かい合う形になって、カニに正面を向けたままじりじりと平行移動した。
カニは倒立から正立に体勢を直して、二人のどちらを襲おうか吟味するように目を動かした。

朱狼は岩砲に呼びかけた。
二手に分かれよう。
蒲公英を探すことが最優先の現状では、どちらかがこの敵をひきつけ、
もう一人が捜索に専念する方が得策だという判断だった。
岩砲は、これに否(いな)と答えたかった。
腕にかかえている間、そして距離の離れた今なお、朱狼の体のふるえと肌の青さが認識できた。
動揺している、と岩砲は思った。
李乃の死姿を見て、李乃を救わなければというあせりだけが先行しているのが見て取れた。
その朱狼を孤立させるのを、岩砲は危険だと思った。

カニの背中に、先に見た毒針が生えた。
朱狼と岩砲は木の裏に隠れ、発射された毒針の散弾から身を守った。
毒針は一本一本が、木の枝を打ち払うほど高い威力を持っていた。

攻撃の切れ目に、朱狼はもう動き出していた。
自身が示した方向に走りながら、岩砲へ向かって声を張った。

「死ぬなよ!」

死ぬなよ、と、岩砲が一番言いたかった。
しかしそれを言う間もなく、すでに朱狼の姿は木々の向こうに見えなくなっていた。

カニが宙を飛び、木を殴り飛ばして岩砲の前に立ちふさがった。
とにかく、と、岩砲は思い直した。
こうなった以上、今はできる限りのことを精一杯やろうと覚悟を決め、
岩砲は渾身のこぶしをカニにぶち当てた。
カニは後退して踏ん張り、口から炎を吐いた。
岩砲は両腕で土をかかえ上げ、炎に向かって放り投げた。
炎は土に当たって広がり、岩砲の周りをすり抜けていった。
岩砲は前進し、土ごと炎を蹴り飛ばしてその向こうへ攻撃をしかけた。

そこで岩砲は後悔した。
カニはすでに、岩砲の知覚範囲から姿を消していた。



朱狼はひたすらに、森を走った。
樹木の層に吹雪が遮断されているせいで、森の中は恐ろしく静かだった。
息が上がりかけていた。
妖の気配は再び感知不能なほどの混沌状態に戻っていたため、
先ほど感知した方向を頼りに進むしかなかった。
方向を見誤る恐れがあるため、転移符などは使いたくなかった。

バキバキと枝の折れる音が聞こえた。
朱狼は振り返った。
カニが浮遊して、木々を押しのけながら朱狼に急接近していた。
朱狼は護封壁の封妖符を発動した。
攻撃が朱狼に届く寸前で護封壁が張られ、カニは護封壁にぶつかってけたたましい衝撃音を響かせた。
勢いに気圧(けお)されて、朱狼は尻もちをついた。
護封壁が破られて、はさみが朱狼に向いて降りかかった。

「うおおお!」

朱狼は転がって攻撃をよけた。
外套や襟巻きが土で汚れ、口にも少し土が入った。
朱狼はすぐに顔を上げた。
地面にはさみを深々と刺したカニは、そのままもう一方のはさみを繰り出した。
朱狼は紫桜丸を鞘のまま持って、はさみを防御した。
反動で朱狼の体は飛ばされ、鞘にはひびが入った。
カニはさらに追撃をしかけた。
朱狼は封妖符を束のまま出して、出した分にまとめて封妖酒をかけて発動した。

「あああ!」

一〇枚以上の護封壁が、ドーム状に朱狼を取り囲んだ。
カニは何度もはさみを叩きつけ、護封壁を壊しにかかった。
朱狼は息が切れていた。
むしろ、過呼吸におちいっていた。
叩きつけられるはさみの、そのふちにわずかについた肉片と血の跡が、朱狼の視界にちらついた。

――落ち着け。

朱狼は自分に言い聞かせた。

この妖怪と戦う手段が、朱狼の脳内で考察された。
刃が通らないから、紫桜丸は効かない。
李乃の最大出力の電撃も寄せつけなかったから、妖術も効かない。
岩砲の力でも甲羅にひびすら入らなかったから、物理的破壊も難しい。
有効な攻撃手段が、見つからない。

壁の割れる音がして、朱狼はびくりと震えた。
護封壁の層は、着実に粉砕されていた。
朱狼の呼吸が、病的に速まった。
カニのはさみが視界を縦横断するたびに、李乃の刺される様子がフラッシュバックした。
瞳孔が開き、冷や汗が流れた。
抱き寄せた自分の体は小刻みに震え、手が、顔面が蒼白になっていた。

落ち着け。

そう言い聞かせても、朱狼の体はしずまらなかった。
視界が闇色にひずみ、脳髄が白色にしびれた。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。
動悸が強い。
カニが近い。
全身の感覚がない。
思考する余力がない。
そして残りの壁が二枚を切ろうとし、緊迫が最大限まで高まったとき。

朱狼は紫桜丸を抜いて、自分の左手の甲を切った。

内側から二枚目の壁を破壊したところで、カニの目は朱狼の様相をとらえた。
朱狼は血のしたたる左手を、まるで口づけをするようにくちびるに押し当てていた。
こくりと、朱狼ののどが動いた。
自分自身の血を、朱狼は飲み下していた。

口をぬぐうように左手をどけて、朱狼は顔をカニに向けた。
白い肌に、赤く濡れた口まわりと点々とこびりついた土くれとが、どぎつい対比をなしていた。
朱狼の目は、うるんでぼやけていた。
それなのに朱狼の眼光は、奇妙な透明感さえ感じさせる赤色に輝いていた。

透明な赤色の視線をカニに向けて、朱狼は喋った。

「少し、落ち着いた。
オレは今、やるべきことだけをやることにする。
蒲公英に会いに行く、それだけだ」

カニのはさみが、最後の護封壁を破った。
それが、開始の合図になった。









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