青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第三〇話 花と散る様に舞い

護封壁が壊れると同時に、朱狼は走り出した。
カニに背を向けていた。
身体強化の封妖符を使っていた。
封妖酒のひょうたんを一本使い切り、朱狼は空のひょうたんを投げ捨てた。
達國に大量にもらった封妖酒は、まだ二本残っていた。
朱狼は強化された脚力で、地を蹴り木の幹をも蹴って突っ走った。

カニは浮遊して、朱狼を追った。
速力はとんとんだった。
朱狼に追いつけないと判断したカニは、木をへし折って投げ飛ばした。
朱狼は横っ飛びに回避行動を取った。
かわしきれずに木の枝が引っかかって、朱狼の服と肌に傷がつき、朱狼の体はくるくると回った。

カニは詰め寄ってはさみを振り上げた。
回転する朱狼の顔が、一瞬、カニと目を合わせた。
朱狼は回転の勢いで、封妖酒をこぼしていた。
環状に封妖酒は白く光り、その軌跡をなぞるように朱狼は手を伸ばした。
回転につれて朱狼の眼光が遠ざかり、それにつれて伸ばした手がカニの眼前に向いたとき、
指先が封妖酒に触れた。

爆発の妖術が発動した。
銅を焼いたような青緑の爆光が、カニの目を射した。
カニは目がくらみ、ギチギチとわななきながら当てずっぽうではさみを振った。
朱狼は爆発の反動で、すでにカニから距離を置いていた。

カニは身を震わせて、目のくらみを回復させた。
視力が戻ったとき、カニの目には朱狼の姿は三人見えた。
朱狼は分身符を使っていた。
分身は別々の方向に走り、このままかく乱して逃げ切る算段だった。

カニは地面にはさみを突き立て、逆立ちして回転しながら八本の足をめちゃくちゃに蹴り出した。
周りの木々が破砕され、とがった木片になって飛んだ。
それと同時に、カニは甲羅に毒針を召喚した。
毒針が撃ち出され、まかれた木片とともに、
弓矢を一斉射撃するかのごとく複数の朱狼に襲いかかった。
木々の破砕音で振り返った朱狼は、回避のしようがなかった。
分身の朱狼は一斉射撃を受けてかき消え、本物の朱狼はその体に木片と毒針をしこたま受けた。

「あ」

のどに木片が刺さった。
致命傷でないのは感覚的に分かったが、血の流れがやばい状態になった感触はした。
ひょうたんの一個には毒針が刺さり、封妖酒が漏れ出していた。
その他全身に木片と毒針は刺さり、朱狼の体は針山のようになっていた。
自身の血が飛び散るのが、朱狼の視界に見えた。

カニは一気に詰め寄った。
大振りに振られたはさみ攻撃を、朱狼は地面を転がってよけた。
体に刺さった木や針がより深く肉をえぐって、朱狼は悲鳴を噛み殺した。
声を出せば、のどに刺さった木片がうずくところだった。
カニは二撃目を繰り出した。
朱狼は土にまみれた顔で、進行方向だけを見た。
カニに向けた背の、その羽の外套が緑を帯びた。

爆発の妖術が発動した。
穴の開いたひょうたんから、封妖酒が外套に染み込んでいた。
朱狼の体は前進し、カニの攻撃は空振りに終わった。

朱狼は連続で外套を爆発させた。
羽の外套は緑色に光る翼となって、朱狼の体を乱暴に押し出した。
爆光と流血とが、軌跡となって尾を引いた。
体にかかる反動は大きかった。
しかしカニから逃げ切れるだけのスピードは確保できた。
振り返らず体をいたわることもせず、朱狼は前進した。
視界はよく見えなかった。
しかし朱狼の感覚は、妖力を察知し始めていた。

――近づいてきた、蒲公英!

混沌としていた妖力の気配から、すでに蒲公英の気配がかぎ取れるほど朱狼は接近していた。
朱狼は全身全霊を、爆発による前進についやした。
このまま他に余力を使わず、一刻も早く蒲公英のもとにたどり着きたかった。
そうはいかないことに、朱狼はすぐに気づいた。

一回の爆発で進む距離が、徐々に短くなっていた。
何かの抵抗を受けて、ブレーキがかかっている様子だった。
スピードが乗らなくて、朱狼の体は地面を引きずる形になった。
腕を地面につき、半ばはいつくばるようにして朱狼は進んだ。
血が地面をじわりと濡らした。
進みながら、朱狼は体に幾本もの細い糸がからまっているのを見た。

朱狼は周りを見回した。
目を凝らさないと見えないような細いクモの糸が、そこらじゅうに張りめぐらされていた。
木々の向こうに、糸にくるまれて沈黙する妖怪の姿が何体か見えた。
それらはみな、同じ方向を向いていた。
蒲公英の気配がする方向だった。
朱狼は理解した。
これらの妖怪は、蒲公英の妖力に引き寄せられてやってきた。
そして一様にクモの糸にかかり、束縛された。
このクモの糸は、蒲公英をエサにした、釣り場だ。

背後からカニが追いついてきた。
朱狼は緊迫した。
振り下ろされたはさみを、爆発の妖術でかろうじてかわした。
糸を体にからめすぎて、朱狼はほとんど距離を動いていなかった。
はさみはさらに繰り出された。
よけきれない朱狼は、とっさに紫桜丸を抜いて受け止めた。
はさみは紫桜丸をはさみ、そのまま強い力でねじり上げた。

ピキンと、奇妙に凛とした音が響いた。
紫桜丸が折り取られた音だった。

朱狼の顔が、明確な絶望の色に染まった。
折り取られた紫桜丸の半身が、はらはらとさながら桜の花びらのように舞い落ちた。

ねじり上げたのと逆のはさみが、朱狼へ突き出された。
放心していた朱狼は、まともに回避も取れなかった。
漆黒のはさみの先端が、朱狼の腹へ食い込んだ。

「」

声は出なかった。
代わりに血が、口腔から吐き出された。
はさみは衣を破り、腹筋と腹膜を破り、胃袋と脾臓に穴を開けていた。
文句なしの、致命傷だった。

はさみが動いた。
ぐぬりと、腹腔内をかき回される感触がした。

「」

叫ぶ代わりに血を吐いた。
封妖酒の残った外套に転移符を張りつけ、朱狼は転移してはさみから逃れた。
栓の抜けた腹から、血がとめどなく流れた。
カニは近距離に転移した朱狼に視線をやり、ぬらりと濡れたはさみを構えて浮遊に移った。
朱狼は三本目の封妖酒に手をつけ、懐から封妖石をばらまいて片っ端から発動させた。

炎が、大量の炎が巻き起こった。
炎は森を焦がし、クモの糸を焼き切り、朱狼の体をも焼いた。
傷を焼いてふさげるからちょうどいいと、朱狼はそのくらいに考えていた。
ふと、朱狼は自身の手に残った、紫桜丸の半身に目をやった。
その身を折り取られてなお、残った刃は紫色を保っていた。
こんな状態になっても生きていてくれる、そのことに朱狼は感謝し、朱狼の目から涙が流れた。
その折に李乃からもらった帽子と襟巻きが焼けていることにも気づき、朱狼は謝罪の念を抱いた。
襟巻きに、いつついたのか、李乃の金色の髪飾りが引っかかっていた。
岩砲に抱かれたときに李乃から移ったのだろうと、朱狼は理解した。

残りの封妖酒の大半を、朱狼は外套に染み込ませた。
外套に、再び爆発の妖術が宿った。
朱狼は前進した。
炎をまとい、ひたすらに爆発を背負って舞い飛んだ。
体が壊れる感覚がした。
痛みは、すでに知覚できる水準を振り切っていた。
朱狼は強壮剤を取り出し、噛み砕いた。
血を失いすぎて停止しそうになる意識と身体機能を、朱狼は気合いで保たせた。
ただ爆発させ、前進し、限界まで突き抜けた。

そして朱狼は、開けた場所に出た。
そこだけ木々がぽっかりと生えていない、広場のような場所だった。
妖力が舞い上がって、空に向かって打ち上げられていた。
広場の中心に、巨大な氷の塊があった。

蒲公英はいた。
氷の中で、眠っていた。
頭を下にし、長い金の髪を根のように広げ、胎児のように丸まって、沈黙していた。

そのひたいに、裂け目があった。
縦に切り込まれた、李乃と同じ裂け目だった。









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