青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第三一話 闇に沈み吐き下す

光景を見て、朱狼は状況を理解しようとした。
それができる間もなく、朱狼のひざはくずおれた。
血を失い焼けこげた朱狼の体は、自分の体重を支えることすらもはやままならなかった。
瞳の焦点が、ぐらぐらと危険にゆれた。

カニが追いついてきた。
考える余裕もなく、朱狼は爆発の妖術を発動した。
吹き飛ばされるようにカニの攻撃を回避し、朱狼は氷の塊にぶつかった。
ずるずると朱狼の体がずり落ち、氷に血の跡が残った。
赤く塗れた氷の向こうに、蒲公英の倒立した寝顔が透けていた。

カニははさみの突きを繰り出した。
朱狼は爆発でそれをかわした。
はさみはけたたましい音を立てて、氷をかち砕いて突き刺さった。
そのまま貫き通せば、確実に蒲公英の頭を粉砕する位置だった。
カニははさみを抜いて、朱狼に向き直った。
穴の開いた氷は、周りから水分が凍結していって元通りにふさがった。
一部始終を、朱狼は見ていた。

カニは再びはさみを突き出した。
朱狼は爆発でかわした。
その動きを読んで、カニはすでに逆のはさみを動かしていた。
朱狼の右足が、はさみにつかまった。
まずいと思った瞬間、朱狼の体は強く振り回された。

朱狼の体が、強い力で地面に叩きつけられた。
顔面と体中をしたたかに打ちつけられ、朱狼は血を嘔吐した。
脳髄のゆれる感覚がした。
右足の骨は、すでに折られていた。
息つくひまもなく朱狼の体は振り上げられ、血の軌跡が空中で弧を描いた。
はさみに力がこもり、ばちりといやな音がして朱狼の体が宙を舞った。
右足が切断され、切断面から血が噴き出した。

ぼとりと、朱狼は仰向けに地面に落ちた。
もはや、糸は切れていた。
全身が赤く染まり、両腕と片足をだらしなく伸ばし、
もと右足があった場所からは、つらつらと血を垂れ流していた。
目は、開いていた。
視界の端には、氷の塊に包まれた蒲公英が見えていた。
ぼんやりと、ひたいに裂け目のあるその蒲公英の顔に、李乃の顔が重なった。

朱狼は、可能性を棄却した。
蒲公英が敵である可能性を棄却した。
蒲公英に意識がない可能性を棄却した。
蒲公英が、朱狼たちに協力してくれない可能性を棄却した。
自分にとって都合の悪い、すべての可能性を棄却した。
論理でなした棄却ではなかった。
そうでなければ望みがないという、ただそれだけの理由の棄却だった。
都合のいい理想だけを胸に抱いて、朱狼は今確かに、行動する活力を手に入れた。

切れた朱狼の右足をその場に捨てて、カニは向き直った。
朱狼は両手で地面を握った。
のどの傷がうずくのも、血が口腔でごぽごぽと泡立つのも意に介さず、朱狼はただ声を張った。

「李乃を。
生き返らせてくれ、蒲公英。
それだけが、お願いなんだ」

はさみが振られた。
朱狼は爆発で飛んだ。
それも半ば間に合わず、はさみに体を打たれて軌道を制御できないまま吹き飛んだ。
朱狼は氷の塊にぶつかり、氷を抱くような姿勢で滑り落ちた。
右手に握られていた紫桜丸の半身が、かりっ、と氷を削った。

――その邪魔になるなら。

妖力が、少しずつ朱狼に流れ込んだ。
その刀身を折られても、紫桜丸はいまだ妖力を吸う能力を残していた。
蒲公英のまとう氷から、朱狼に妖力が移っていった。
朱狼の体が、銅炎色に光を帯びた。

朱狼は振り返った。
カニは漆黒の眼光を向けて、漆黒の巨躯を構えていた。
朱狼の目が、顔の周りに流れる血と同化するように赤黒く光った。
その視線には、明確な殺意があった。

――倒さなくては。
  おまえを、オレの力で!

カニは突進した。
朱狼は爆発の妖術で飛ぶと同時に、浮遊の封妖符を使った。
カニは氷の塊に激突し、けたたましい音を立てた。

カニはすぐに振り返った。
空中に浮遊した朱狼は、左手にひょうたんを握っていた。
その左手で小さな爆発が発動し、ひょうたんの半分が砕かれた。
ひょうたんに残った最後の封妖酒に、朱狼は懐から薬を取り出して溶かし込んだ。
それをするとすぐに、朱狼は封妖石を発動した。

「」

詠唱は、血の塊を吐くだけに終わった。
風の封妖石が発動し、風は薬を溶かした封妖酒を巻き上げ、広場を駆けめぐり嵐になった。
蒲公英の氷と冷気に風は冷やされ、封妖酒が結露して薬の粒子を核にして霧に変わった。
嵐と霧が、荒々しくカニの体にまとわりついた。

カニは浮遊して、朱狼を追った。
嵐の障壁も霧の目くらましも、カニはほとんど意に介していなかった。
朱狼は爆発の妖術を機動力に、空中を滑空して逃げ回った。
逃げ回りながら、蒲公英の氷を切って妖力を回復し、封妖石で攻撃をしかけた。
カニはどんな攻撃でも、一切ダメージを受ける気配がなかった。
嵐を切り裂き、霧を吸い込みながら、カニははさみをぶん回し、
ときに毒針や炎なども織り交ぜて、朱狼を攻め立てた。

カニは地面に着地した。
度重なる攻撃で、朱狼はすでに地に突っ伏していた。
右足だけでなく、左足も切断されていた。
瞳がうつろになり、消化器官がうずいて血と胃液を嘔吐し、腹の傷からも直接胃液が流れ出た。
血染めの朱狼に、カニはゆっくりと歩み寄った。
弱々しく残る息の根を止めようと、カニははさみを振り上げた。

そのときカニは、ぶるりと不自然に震えた。
口からぶくぶくと、泡が立っていた。
次の瞬間、カニは嘔吐した。
口を大きく開け、消化途中の胃の内容物を滝のように垂れ流した。

朱狼が封妖酒に溶かしたのは、ありったけの鎮痛薬だった。
朱狼が常用する鎮痛薬は、効力が強い代わりに、強い副作用を持っていた。
その副作用は、眠気、便秘、そして悪心嘔吐だった。
カニは呼吸の際に霧を吸い込み、すなわち鎮痛薬を吸い込み、今こうして副作用を発現した。
すべては、朱狼の意図した通りだった。

こじ開けたチャンスに、朱狼の目が見開いた。
朱狼は渾身の爆発を発動し、カニへ詰め寄った。
左手に、封妖石が握られていた。
おたけびが、血のあぶくになって口からこぼれた。
嘔吐によってぽっかりと開けられたカニの口に、朱狼の左手がねじ込まれた。
血の塊を吐き出して、朱狼ははっきりと詠唱した。

「爆炎縛(バクエンバク)!」

炎が、カニの体内で渦巻いた。
荒れ狂う炎がカニを体内から引っかき、焦がし、膨張し破壊した。
外部からの力には強いカニの甲羅も、内側からの圧力には耐性がなかった。
空気を入れすぎたボールのように、カニはふくれ、爆発した。
爆音とカニのパーツと真っ赤な炎とが、放射状に広がった。

その飛び散る残骸の中に、握りこぶし大の別の妖怪がいるのを、朱狼の目は見た。

寄生バチと呼ばれる種類のハチがいる。
この種のハチは、他の昆虫の幼虫などに卵を産みつけ、その体内で幼虫が孵化する。
ハチの幼虫は宿主が死なない程度にその体を食らい、成長し、
やがて程よい頃合いにまで成長すると、宿主の体を破って成熟となる。
また寄生バチの一部には、寄生した宿主の行動を操作し、
自分たちの都合のいいように動かせる種類もいる。
さながらそれは、操り人形のように。

握りこぶし大のハチの妖怪が、羽を広げた。
反応する間もなく、ハチは朱狼の腹の傷へ飛び込んだ。
朱狼はうめいて、腹を押さえた。
どうこうするひまもなく、朱狼の口に血がこみ上げた。

朱狼は、致死量の血を吐き出した。
苦痛の中に、李乃のことや美智姫のことが頭をちらつき、そして乱された。
朱狼の意識は、そこで途切れた。

戦いのさなか、蒲公英はずっと沈黙していた。



岩砲は空を見上げた。
空気に満ちる妖力が乱れ、木々の木の葉が揺れていた。
何かが消えていく、そんな胸騒ぎを感じさせる動きだった。

地面がうごめいた。
それはカニの台頭で今まで鳴りをひそめていた、この森に集まっていた妖怪だった。
四方で妖怪が頭をもたげ、岩砲を取り囲んだ。

岩砲の筋肉が、震えた。
朱狼に起こった不幸を予感し、岩砲は腹の底から吠えたぎった。

「おおおおおおおお」

岩砲は突進した。
幾十、幾百もの妖怪の群れに、岩砲はひとり、立ち向かった。



遠見装置をのぞいていた達國は、持っていた酒を取り落とした。
森の中心から立ち上っていた冷気の渦が急激にしぼみ、森は灰色に変色を始めた。
それは今までしげっていた森の木々が、いっせいに枯れ始める瞬間だった。
森の上空を、何かが飛び抜けていった。

達國は遠見装置をのぞいたまま、横に控えていた宙々に呼びかけた。

「美っちゃん宛てに、手紙を送る準備をしろ、宙々。
何が起こったか分からねえが、もしかすると、朱狼死んだぜ」



上空に雲は厚く、降り続く雪は、まだまだ止みそうになかった。
静かに色を失いながら、森は沈黙した。



―第二章『しずむ森の章』 閉幕―









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