青輪異界国伝聞 美智姫奇譚
第三二話 追憶之二 〜美智姫〜

人形のような小さな腕に抱きかかえられて、幼い子供は眠っていた。
ままごとのように、そしていつくしむ母親のように、
当人も幼児の年代を抜けきらない美智姫は、無垢に眠る男児にその胸を貸していた。
やわらかに梅花は部屋の外で香り、美智姫の母と男児の母とは、庭をながめながら談笑していた。

美智姫は男児の顔を見やり、しばらく観察してから、おもむろに男児のまぶたを持ち上げた。
男児は睡眠を邪魔されて、ぐずった。
二人の母親がわらわらと寄ってきて、男児は男児の母親の腕に収まり、
美智姫は美智姫の母にたしなめられた。
美智姫はころりと首をかしげ、澄んだ黒い瞳を向けて、二人の母親に尋ねた。

――朱狼は、朱顎みたいにお目々も髪の毛も『赤くない』のに、
  どうして朱狼って名前なの?

男児の母は、にっこりと笑って説明した。
黒髪に黒い瞳の男児――朱狼は、母親の腕にくるまれて、おだやかに眠りの中へ戻っていった。



近(コノ)の家青玉(セイギョク)の血、近の国の領主智久(トモヒサ)の長女として、
美智姫は産まれた。
妖力自己供給型の血統であり、妖を封印する能力は特殊血統の中でも最大級の評価を得ていた。
ときに青玉の血縁者は他国へと派遣され、妖に関する問題を処理することもあった。
それゆえに近の国は外交の盛んな国であるが、
その実青玉の力は血の中に封じた大妖怪の影響が大きく、
外交の表において裏において、大妖怪の存在を傘にしているのはひとつの事実だった。



美智姫六歳のころ、美智姫の母は第二子を身ごもった。
男児であることは産まれる前から分かっており、智久も美智姫の母も期待に満ちていた。
美智姫も義兄の智燕(チエン)とともに、弟の出生を楽しみにしていた。

そして美智姫の母は、出産時に子もろとも死亡した。

美智姫が立たされた状況は、朱狼とほぼ同じだった。
違うのは、美智姫は母と弟の死体を直接見たことだった。

騒動の中、大人たちの制止をかいくぐり、美智姫は分娩室へ突入した。
心待ちにしていた弟の姿は、異形――妖怪に変化していた。
母親の腹を突き破り、変形し突出したあごが母親の乳房を食い破り、
母親の心臓に歯を立てた状態で弟は絶命していた。
妖怪変化した爪に引っかかれたのか、母の顔は見る影もなく崩れていた。



翌日の早朝、朱狼は紫桜丸を発現した。
それをきっかけに、朱狼の容姿は黒髪黒眼から、赤髪赤眼へと変わった。



美智姫の母と朱狼の母の葬式は、合同の会場で行われた。
暗鬱(あんうつ)とした、梅雨の降り注ぐ時期だった。

喪服に身を包んだ黒い人の群れから、美智姫は朱狼を見つけた。
黒の中で、赤く変色した朱狼の髪と瞳はことさらに目を引いた。
そのときの朱狼は、今まで美智姫が見知っていた朱狼とは別人のようだった。
髪と瞳の色が変わっただけでなく、その顔つき、雰囲気すら、それまでの朱狼とは違っていた。

泣かなかったと、美智姫は記憶している。

美智姫は朱狼を、ぎゅっと後ろから抱きすくめた。
自分の知っている朱狼がいなくなってしまう、そんな漠然とした不安が美智姫にはあった。
朱狼は押し黙って、美智姫の腕を甘受していた。
その腰にはずっと、紫桜丸が帯刀されていた。



美智姫と朱狼は、寄り添って暮らし、成長した。
朱狼は朱顎ら大人から剣術を習い、美智姫は朱狼から剣術を教わった。
そこに千夜と一夜も加わり、子供たちは四人でよく行動していた。
恵まれた日々であったが、美智姫はどこかに、黒髪の朱狼の面影を探していた。

そんな折に、美智姫は蒼鱗と出会った。

イチョウの庭で、美智姫は朱狼たちが来るのを待っていた。
日が短くなり、イチョウが美しく色づいた時期であった。

人の気配を感じて、美智姫は振り返った。
イチョウの木に寄り添って、美智姫より見た目五つほど年かさの、見たことのない少年がいた。
少年は銀髪で、瞳はイチョウ色に似た金、肌は褐色をしていた。
その顔はやつれ、そして衣は、血にぐっしょりと濡れていた。
少年の血では、なかった。

少年は驚いたような、恐れるような顔をして、美智姫を見ていた。
美智姫は少年を見つめて、しばらくじっとして、それから不意に歩み寄った。

美智姫の背後から、落ち葉を踏み鳴らす音が聞こえた。
朱狼たちの到着を告げる音だった。
少年はおびえるような顔をした。
美智姫は少年の衣に触れて、少年の顔を見上げて、無垢な瞳で尋ねた。

――お名前は?

朱狼たちが、二人のいる場所に到着した。
美智姫の手から、封印の妖術が少年の衣に染み込んでいた。
封印の力は血だけを砂に変え、衣から赤色だけを取り去った。

美智姫は、朱狼たちの方に振り返った。
彼女は少年――蒼鱗を、新しい友達として紹介した。

その後蒼鱗は、大人たちに尋問された。
蒼鱗は出身を、玉虫(タマムシ)の国と説明した。
玉虫の国は、煉瓦(レンガ)の国の侵略戦争によって最近つぶされたばかりの国だった。
その煉瓦の国も、この時期すでに内乱が激化していた。
蒼鱗は侵略戦争で親を殺され、一人で命からがら逃げてきたと説明した。
誰にも見つからずイチョウの庭に入れたことについては、親が最期にかけてくれた、
姿を見えなくする妖術のおかげだと説明した。

蒼鱗の処遇をどうするか、大人たちは議論を交わした。
身元が怪しいため国内におくべきでないという意見もあったが、結局美智姫の押しもあり、
蒼鱗は近の国に住まうこととなった。
もともと蒼鱗は高い医学の知識と技術があったため、身寄りがないながらも、
それなりの職と生活を得ることができた。
美智姫はこのとき蒼鱗に、なんら共通点はないにもかかわらず、黒髪の朱狼の面影を見ていた。

美智姫一〇歳、蒼鱗十五歳のころであった。



年齢を重ねるにつれ妖力は高まり、美智姫は他国への遠征に出るようになった。
花坐隊とともに妖に関する問題を抱えた地域へと向かい、美智姫はそこで妖の封印を行った。
花坐隊には朱狼も所属し、二人は遠征の中で少しずつ世界に触れていった。

美智姫が一四歳の誕生日を迎えたばかりの夏、遠征先で彼女らは李乃と出会った。
李乃の生い立ちと生活について、美智姫は細かな話を聞かなかったが、
血統非由来の妖力自己供給型であること、煉瓦の国で戦闘兵器として使われていたことは聞いた。

岩砲が彼を保護すると聞いたとき、美智姫は蒼鱗のことを考えて不安になった。
美智姫の心配をよそに、李乃はのちに自らの意思で蒼鱗に会い、
和解ができたことを美智姫はすべて終わってから聞かされた。

李乃は岩砲のもとで教育と訓練を受け、その年の初冬には朱顎らと入れ替わりに花坐隊に入隊した。



そして翌年の夏、事件は起こった。

その日も美智姫と花坐隊は、他国へと遠征に向かった。
そこで報告になかった強大な妖と出会い、朱狼らは苦戦を強いられた。
妖は家屋を押しつぶすほどの、巨大なクモだった。

クモの糸に、朱狼はからめ取られた。
苦しまぎれに突き出した紫桜丸がクモの妖力を奪うと同時に、クモの爪が襲った。
朱狼は、首を切り飛ばされた。
跳ね飛んだ首が地面を転がり、美智姫の足元で、美智姫に顔を向けた状態で止まった。

李乃はこのとき初めて、美智姫たちの前で治癒の妖術を使った。
朱狼の首は元に戻り、死なずに済んだ。

美智姫はここで、初めて暴走をした。

――李乃、その力。
  ああ、『ああ』、あああああ!

ひたいに角が生え、瞳が青く変色した。
爆発的な妖力が、花坐隊も何もかも破壊せんとまき散らされた。
唯一白納仁だけが、暴走について知っていた。
妖力を使い尽くせば暴走は止まると知らされたとき、朱狼はすぐに動いていた。
妖力の奔流をかいくぐり、美智姫に迷いなく紫桜丸の刃を当てた。

――謝ることなど、何もありません。

暴走が止まっても、美智姫の瞳は青いままだった。
美智姫は自分の中に、自分でない何かが宿ったのを感じた。
青い瞳は、それまで見えなかったものを視界にとらえた。
紫桜丸に眠る魂を、美智姫は見た。

ずっと面影を追っていた黒髪の朱狼が、そこにいた。



近の国に戻った美智姫は、自身の置かれた状況を聞かされた。
事実上余命一年と知らされたとき、朱狼が寝込んでいたのは幸いだった。
朱狼が回復するまでに、美智姫は考えをまとめることができた。

阿牙鳴、蒼鱗、千夜、一夜が加わり、急ごしらえの花坐隊が出来上がった。
真実を知らされたのは、もともと大妖怪のことを知っていた白納仁と、
世話係として美智姫と接することの多い千夜、一夜だけだった。

――謝ることなど、何もありません。

旅立ちの日、美智姫の謝罪に対して、朱狼はそう答えた。
もしかすると、事実を話してもいいのではないかと、美智姫はちらと考えた。
しかし結局事実を話せないまま、旅は始まった。

朱狼が気を失っている間に、美智姫は一五歳の誕生日を迎えていた。









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